第107回 正修止観章 67
[3]「2. 広く解す」 65
(10)煩悩境②
(2)別釈②
②「煩悩の起こる因縁を明かす」
この段では、煩悩が生起する原因を三種取りあげている。一方、煩悩が生起する様相には四種があり、深いが鋭くないこと、鋭いが深くないこと、深くもあり鋭くもあること、深くもなく鋭くもないことである。この第四の深くもなく鋭くもない様相は、通常の果報(五陰)の惑の様相の所属であり、ここの煩悩境で扱うものではないといわれる。第三の場合(深くもあり鋭くもあること)は、煩悩が生起し動くのが普通と異なり、煩悩境の煩悩が生じる様相に所属する。「深い」というのは、煩悩が生じるとき、深く重大であり禁止することができず、あらゆる境についていよいよ増大し、遮り制止することがないことをいう。「鋭い」というのは、しばしば起こり、起こるといつも深く重大であることをいう。第二の鋭いが深くないこと、第四の深いが鋭く【利】ないことについては、これに準拠すればわかるであろうといわれる。
さて、煩悩が生起する原因には、習因の種子、業の力が煩悩をたたき発動させること、魔に扇動されることの三種があるといわれる。
「習因」の習とは、無量劫以来、煩悩が重なり積もって、種子が成就し、滲透して相続することをいう。たとえると、急な水の流れは、これに従えばその速さに気がつかず、これを止めようとすると、急速であることを知るようなものであるといわれる。修行者は、煩悩の流れに任せ、生死の海に沿って、すべて知覚しないが、もし三十七道品を修行すれば、あらゆる流れに逆らって、煩悩の波は高く起こり、ただ熱心に煩悩を特に取り出して、未明から夜までますます修行するだけである。この場合が、煩悩境で扱う原因である。
第二の業とは、無量劫以来、悪行が成立し、恨めしい債務を受けるようなものであるといわれるが、これは十境のなかの第四の「業相境」で扱うべきものである。
第三の魔とは、もし魔の行為をすれば、魔の民の仲間であるので、魔は人を動かし乱さない。もし道を修行して三界を出、三界を去って、三界の外に身を寄せれば、魔の十軍(※1)が収め捉えるので、深く鋭い惑がたちまちもたらされるとされる。これは十境のなかの第五の「魔事境」で扱うべきものである。
この段の末尾には、三種の原因について、火にたとえて、手で物を振るうことは習因の種子のようなものであり、風を扇ぐことは業のようなものであり、膏(あぶら)を火に投ずることは魔のようなものであると述べている。
③「治の異なりを明かす」(「治法の不同を明かす」)
煩悩を対治する方法に、小乗については、対の対治・転の対治・不転の対治・兼の対治・具の対治の五種があり、いずれも四分の煩悩を対治する。
対の対治とは、一分の煩悩に三種があり、四分の煩悩では合わせて十二となるので、十二の対治の方法があるといわれ、外敵に対して軍隊を配置するようなものであるとされる。
転の対治とは、不浄観については貪欲に対する対治を用いるが、それが都合が悪く、浄観によって貪欲から脱することができるはずである場合には、転換して慈心を修めさせ、浄法が安楽であることを念じるのである。これを転の対治と名づける。また、瞋恚の人に不浄を教え、愚癡の人に辺(世界は空間的に有限であること)・無辺(世界は空間的に無限であること)を思惟することを教え、掉散(軽躁)には智慧によって区別することを教えるならば、これは病が転じないのに対治が転じることであるとされる。これらの場合も転の対治といわれる。
病が転じないのに対治が転じることについては、貪欲の多い人には、通常では不浄観を教えるが、それが不都合な場合は、「浄法安楽」を教えることが説かれている。これは、貪欲の病が転じていない(変化していないこと)のに、対治の方法が不浄観から浄観に転じていることを意味するので、病が転じないのに対治が転じるといわれる。もし薬と病がともに転じるならば、これも転の対治と名づけられ、同様に対の対治でもあるといわれる。
不転の対治とは、病は転じるけれども、対治は最後まで転じず、この法を修行して、ただこれによって対治するのが妥当である。病が転じるのに対治を転じないので、不転の対治と名づけるといわれる。
兼の対治とは、複数の対治の方法を兼ねるという意味であり、病は兼ねているので、薬もまた兼ねているとされる。貪欲が瞋恚を兼ねる場合は、不浄観は慈心観を帯びる必要があり、病が一、二を兼ねているので、薬も同様に一、二を兼ねていることを、兼の対治と名づけるのである。
具の対治とは、上の四つの対治の方法をともに用いるという意味であり、それによってそろって一つの病を対治することである。
次に、大乗の対治について説明する。これは対の対治でもなく、兼の対治でもなく、第一義の対治と名づけられる。小乗は多くの場合、世界悉檀・各各為人悉檀・対治悉檀の三悉檀によって対治し、大乗は多くの場合、第一義悉檀によって対治するとされる。空無生のなかで、何が煩悩であり、なにが対治する主体であるのか。煩悩でさえないのであるから、何が転じるであろうか。転じるものがない以上、また兼の対治、具の対治もない。ただ無生の一方によってくまなく一切の煩悩を対治することであるといわれる。(この項、つづく)
(注釈)
※1 魔の十軍のこと。『大智度論』巻第五、「欲は是れ汝の初軍、憂愁は軍の第二、飢渴は軍の第三、愛軍を第四と為し、第五は眠睡の軍、怖畏は軍の第六、疑を第七軍と為し、含毒は軍の第八、第九軍は利養にして、虚妄の名聞に著し、第十軍は自高にして、他人を軽慢す」(大正25、99中24~29)を参照。
(連載)『摩訶止観』入門:
シリーズ一覧 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回 第11回 第12回 第13回 第14回 第15回 第16回 第17回 第18回 第19回 第20回 第21回 第22回 第23回 第24回 第25回 第26回 第27回 第28回 第29回 第30回 第31回 第32回 第33回 第34回 第35回 第36回 第37回 第38回 第39回 第40回 第41回 第42回 第43回 第44回 第45回 第46回 第47回 第48回 第49回 第50回 第51回 第52回 第53回 第54回 第55回 第56回 第57回 第58回 第59回 第60回 第61回 第62回 第63回 第64回 第65回 第66回 第67回 第68回 第69回 第70回 第71回 第72回 第73回 第74回 第75回 第76回 第77回 第78回 第79回 第80回 第81回 第82回 第83回 第84回 第85回 第86回 第87回 第88回 第89回 第90回 第91回 第92回 第93回 第94回 第95回 第96回 第97回 第98回 第99回 第100回 第101回 第102回 第103回 第104回 第105回 第106回 第107回 第108回
菅野博史氏による「天台三大部」個人訳、発売中!














