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『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第96回 正修止観章 56

[3]「2. 広く解す」 54

(9)十乗観法を明かす㊸

 ⑨助道対治(対治助開)(3)

 次に忍辱波羅蜜の説明の段では、「恨無く、怨無きこと、富楼那(ふるな)の罵られて、手を免るることを喜び、乃至、刃を被れば疾く滅することを喜びしが如くす」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、92中18~19)と述べ、怨恨がないことは、富楼那が罵られても、手や石によって打たれることを免れることを喜び、ないし刃を受けても速やかに死ぬことを喜ぶようなものである。この富楼那に関する逸話は、『雑阿含経』巻第十三(大正2、89中22~下13)に出るものである。富楼那がしだいに厳しい迫害を受けたとしても、それにすべて忍耐する決意を示したものである。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第95回 正修止観章 55

[3]「2. 広く解す」 53

(9)十乗観法を明かす㊷

 ⑨助道対治(対治助開)(2)

 次に、たとい人は円教の捨覚分の観を理解しても、何事につけ物惜しみして執著し、堅く動かず、ただ理解するだけで行動がない場合、このような重大な慳蔽は何によって破ることができ、三解脱門は何によって開くことができるのかという問題を提起している。
 『摩訶止観』には、 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第94回 正修止観章 54

[3]「2. 広く解す」 52

(9)十乗観法を明かす㊶

 ⑨助道対治(対治助開)(1)

 今回は、十乗観法の第七、「助道対治」(対治助開)の段について説明する。十乗観法については、前の観法が成功しない場合に、次の観法に移るという流れとなっているので、ここでも、第六の「道品調適(どうほんじょうじゃく)」が成功しない場合に、「助道対治」が必要となるということである。
 この段の冒頭には、

 第七に助道対治とは、『釈論』に云わく、「三三昧は一切の三昧の為めに本と作(な)る」と。若し三三昧に入らば、能く四種三昧を成ず。根は利にして遮無くば、清涼池に入り易し。対治を須(もち)いず。根は利にして遮有らば、但だ三脱門を専らにするに、遮も障(さ)うること能わず。亦た助道を須いず。根は鈍にして遮無くば、但だ道品を用(もっ)て調適(じょうじゃく)するに、即ち能く鈍を転じて利と為す。亦た助道を須いず。根は鈍にして遮重くば、根は鈍なるを以ての故に、即ち三解脱門を開くこと能わず、遮の重きを以ての故に、牽(ひ)いて観心を破す。是の義の為めの故に、応に治道を須いて遮障を対破すべし。則ち安隠に三解脱門に入ることを得。『大論』に「諸の対治は是れ門を開くを助くる法なり」と称するは、即ち此の意なり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、91上5~14)

と述べられている。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第93回 正修止観章 53

[3]「2. 広く解す」 51

(9)十乗観法を明かす㊵

 ⑧道品を修す(3)

 (4)無作の道諦の三十七道品

 次に、無作(円教)の道諦の三十七道品を明らかにして、一心三観の意義を完成することについて説明する。はじめに、『大品般若経』、『華厳経』、『法華経』を以下のように引用している。

 『大品』に云わく、「一切種を以て四念処を修せんと欲せば、念処は是れ法界にして、一切の法を摂す。一切の法は念処を趣(しゅ)とし、この趣をば過ぎず」と。『華厳』に云わく、「譬えば大地は一なるも、能く種種の芽を生ずるが如し」と。地は是れ諸芽の種なり。『法華』に云わく、「一切の種・相・体・性は、皆な是れ一の種・相・体・性なり」と。何をか「一の種」と謂うや。即ち仏の種・相・体・性なり。常途(じょうず)に云わく、「『法華』は仏性を明かさず」と。『経』に「一の種」を明かす。是れ何の一種なるや。卉木(きもく)叢林(そうりん)の「種種」は、七方便を喩う。大地の一種は、即ち「一実事」にして、「仏種」と名づく。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、88中14~21)

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創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第92回 正修止観章 52

[3]「2. 広く解す」㊿

(9)十乗観法を明かす㊴

 ⑧道品を修す(2)

 (3)問答

 次に、いくつかの問答が示されている。はじめに、道品は二乗の法であって、菩薩の道ではないのではないかという質問が提起される。これに対して、『大智度論』がこのような考えを批判している(※1)ことを述べ、さらに、『維摩経』、『涅槃経』、『大集経』を引用して、『大智度論』の解釈を補強し、道品が小乗の法だけであるとする考えを否定している。
 次に、道品は助道か正道かという問題が提起され、どちらの立場もあると答えている。
 次に、道品は有漏か無漏かという問題が提起される。つまり、もし三十七道品が有漏であるといえば、どうして七覚は修道(無漏と規定される)であるというのか。一方、『法華経』には、「無漏の根・力・覚・道の財なり」(※2)とある。ここには、五根・五力・七覚支・八正道に無漏という形容語が付けられているので、道品が有漏であるという考えと一致しない。また、『法華経』には、「覚・道」という順序に並べられているので、八正道が七覚の前にあること(後述する『阿毘曇毘婆沙論』の説に当たる)を否定している。
 この問題に対して、第一に三十七道品は、すべて有漏であり、第二にすべて無漏であり、第三に有漏でもあり無漏でもあるという三つの立場を区別して理解すべきであることが示されている。 続きを読む