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『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第32回 方便③

[3]具五縁について①

 二十五方便の第一は「五緑を具す」ことである。五縁とは、持戒清浄(じかいしょうじょう)、衣食具足(えじきぐそく)、閑居静処(げんごじょうしょ)、息諸縁務(そくしょえんむ)、得善知識(とくぜんちしき)の五つの条件であり、正面から止観を修行するためには、この五条件を具備することが必要とされる。順に脱明していく。
 第一の持戒清浄は、言うまでもなく戒律に関するものであり、詳しく説明されている。『摩訶止観』の本文では、「一に戒の名を列し、二に持戒を明かし、三に犯戒(ぼんかい)を明かし、四に懺浄(さんじょう)を明かす」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、373頁)(※1)とあるように、四段落に分けているので、ここでもそれに従って解説しよう。 続きを読む

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創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第31回 方便②

[2]二十五方便の出典と思想的意義

 二十五方便が何に基づいて形成されたかということに関して、『摩訶止観』巻第四上には、「此の五法の三科は『大論』に出で、一種は『禅経』に出で、一は是れ諸の禅師の立つるなり」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、372頁)と述べている(※1)
 呵五欲(色・声・香・昧・触の五種の対境に対する欲望を呵責すること)、棄五蓋(貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑の五種の煩悩を捨てること)、行五法(欲・精進・念・巧慧・一心の五法を実行すること)の三科は、『大智度輪』巻第十七(大正25、181上~185中を参照)に基づいて立てられたものである。具五縁(持戒清浄・衣食具足・閑居静処・息諸縁務・得善知識)の一科は、『禅経』に基づくと述べられているが、この『禅経』が具体的に何という経典であるかは不明である。関口氏は、「天台大師は、ひろくこれらの諸経論(禅秘要法経、坐禅三昧経、禅法要解、小道地経、大般涅槃経、止観門論頌、菩提資糧論など――菅野注)に注意し、主としては禅経類により、あわせて遺教経、成実論などをもちいつつ、呵五欲、棄五蓋、行五法に対応させて、五項目から成る具五縁なるものを新たに構成したのであろう」(※2、『天台止観の研究』105頁)と述べている。 続きを読む

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創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第30回 方便①

[1]二十五方便

 今回は十広の第六「方便」について考察する。この方便とは、第七章の正修止観で説示される十境十乗の観法の用意、準備条件を意味する。具体的な内容としては、具五縁(持戒清浄・衣食具足・閑居静処・息諸縁務・得善知識)、呵五欲(色・声・香・昧・触の五種の対境に対する欲望を五欲といい、これを呵責すること)、棄五蓋(貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑の五種の煩悩を捨てること)、調五事(食・眠・身・息・心の五事を適度に調整すること)、行五法(欲・精進・念・巧慧・一心の五法を実行すること)の、一項目五ヶ条からなる五項目が説かれる。つまり、合計すると、二十五ヶ条が説かれている。
 これを二十五方便ということもある(※1)が、天台智顗(ちぎ)の最初期の著作である『釈禅波羅蜜次第法門』(『次第禅門』、『禅門修証』ともいう)巻第二にも説かれており(大正46、483下~491中を参照)、さらにまた、『天台小止観』(※2)にも説かれている。『摩訶止観』の二十五方便の叙述においても、その詳しい説明を『釈禅波羅蜜次第法門』に譲っている場合がある。したがって、この二十五方便の思想は、智顗の少壮の時期にすでに確立され、その後晩年にいたるまで一貫して変わることがなかった基本的かつ重要な思想であったと評せよう。 続きを読む

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創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第29回 偏円⑥

(5)権・実を明かす③

(c)接通に約して、以て教理を明かす②

 蔵教・通教・別教・円教の四教の存在以外に、被接(ひしょう)を問題とする理由については、利根の修行者が飛躍的に修行を前進させる可能性を理論的に組み込むために、三種の被接を考案したと思われる。一般化していうと、宗教の修行における超越の可能性に席を用意したというわけである。この三被接は、『法華玄義』の境妙(迹門の十妙の第一)のなかの七重の二諦説(真諦と俗諦について、七種類の定義を施している)においてよく示されている。というのは、七重とは、四教と三被接を合わせたものであるからである。
 ここでは、最初に、一実(円教)のために三権(蔵教・通教・別教)を施す場合、ただ蔵教・通教・別教・円教の四種の止観があるだけであるが、別によって通を接する(別接通〈べっせつつう〉)止観に関しては、(1)権であるのか、実であるのか、(2)どのような意味で四という数に関与しないのか、(3)どのような意味でただ通教だけを接するというのか、(4)どのような位において接せられるのか、(5)どのような位に接せられて入るのか、という五つの質問が設けられている。初めに教に焦点をあわせて五問に答え、次に諦(真理)に焦点をあわせて四問(第二問を除く)に答えている。 続きを読む

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創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第28回 偏円⑤

(5)権・実を明かす②

(b)四種の止観に約して、以て開権を明かす

 今回は、(b)「四種の止観に約して、以て開権を明かす」以降について説明する。四種の止観とは、蔵教・通教・別教・円教の四教の止観を指す。この四種の止観について、蔵教・通教・別教の三教の止観が権で、円教の止観が実であること(これは開会<かいえ>されない、相対的な立場における規定である)はすでに述べたことを踏まえて、ここでは、別の見方を示している。
 まず、四種の止観は開会すれば、すべて実であると規定する。開会は、一応は方便を除いて真実に入らせることであるが、さらにいえば、方便を真実のなかに収め取って、方便を真実として復活蘇生させる意義がある。次に、四種の止観は、それらによって示される四種の理がすべて不可説であるのに、強いて言葉で説くので、すべて権であると規定される。最後に、前二者においてすべてが実、すべてが権とそれぞれ規定したが、これらの実、権はすべて不可説であるので、すべて権でもなく実でもない(非権非実)と規定され、これらの説明を踏まえて、結論として、

 非権非実(ひごんひじつ)にして、理性(りしょう)は常に寂なるを、之れを名づけて止と為し、寂にして常に照らし、亦権亦実(やくごんやくじつ)なるを、之れを名づけて観と為す。観の故に、智と称し、般若と称す。止の故に、眼と称し、首楞厳(しゅりょうごん)と称す。是の如き等の名は、二ならず別ならず、合ならず散ならず。即ち不可思議の止観なり。此れは但だ実は是れ非権非実なりと開くのみならず、権も亦た是れ非権非実なりと開く。猶お開権顕実の意に属するのみ。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)360~361頁予定)(※1)

と述べている。 続きを読む