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『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第69回 正修止観章㉙

[3]「2. 広く解す」㉗

(9)十乗観法を明かす⑯

 ④慈悲心を起こす(2)

 次に、煩悩無数誓願断については、煩悩は実体的な存在をもたないことを知っているけれども、その実体的な存在をもたない煩悩を断ち切ることを誓い、煩悩には限度のない(無限、無量の意味)ことを知っているけれども、その限度のない煩悩を断ち切り、煩悩は実相と同一であると知っているけれども、その実相と同一である煩悩を断ち切ると説明している。衆生と煩悩について、それぞれ空、仮、中のあり方を踏まえて三重に説明しているようである。
 このような衆生を救うこと、煩悩を断ち切ることにも、周到な注意、つまり空、仮、中に配慮したあり方が要請されるのである。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第68回 正修止観章㉘

[3]「2. 広く解す」㉖

(9)十乗観法を明かす⑮

 ③不可思議境とは何か(13)

 (10)境の功能を明かす

 第六段の「境の功能を明かす」については、短い説明があるだけであるが、不思議の境に大きな働きのあることを次のように示している。

 此の不思議の境に、何れの法か収めざらん。此の境は智を発するに、何れの智か発せざらん。此の境に依って誓いを発し、乃至、法愛無し。何れの誓いか具せざらん。何れの行か満足せざらんや。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、598-599頁)

と。不思議境がすべての法を収め、すべての智を生じ、この境によって誓いを生じ、ないし法に対する愛著をなくすと説いている。誓いを生ずることは十乗観法の第二の「慈悲心を起こす」(真正菩提心を発す)に相当し、法に対する愛著をなくすことは十乗観法の第十に相当する。つまり、中略されているが、十乗観法の第二から第十までのすべてを含むというものである。さらに、すべての誓いを備え、すべての修行を備えると述べている。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第67回 正修止観章㉗

[3]「2. 広く解す」㉕

(9)十乗観法を明かす⑭

 ③不可思議境とは何か(12)

 「不可思議境を明かす」段は、「総じて理境を明かす」、「自行の境を明かす」、「化他の境を明かす」、「略して自他事理を結し以て三諦を成ず」、「譬を挙げて自他等を譬う」、「境の功能を明かす」、「諸法を収摂し以て観境に入る」の七段に分かれるが、今回は、はじめに、「譬を挙げて自他等を譬う」、「境の功能を明かす」、「諸法を収摂し以て観境に入る」の三段について、順に紹介する。

(9)譬を挙げて自他等を譬う

 ここでは、如意珠、三毒、夢の三種の比喩を取りあげて、自行の境、化他の境などについてたとえている。第一の如意珠の比喩については、『摩訶止観』には次のようにある。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第66回 正修止観章㉖

[3]「2. 広く解す」㉔

(9)十乗観法を明かす⑬

 ③不可思議境とは何か(11)

(8)略して自他事理を結し以て三諦を成ず

 この段には、三世間、十法界、十如是を経歴して、妙境である三諦の様相を明らかにしている。冒頭に、

 若し一心一切心・一切心一心・非一非一切、一陰一切陰・一切陰一陰・非一非一切、一入一切入・一切入一入・非一非一切、一界一切界・一切界一界・非一非一切、一衆生一切衆生・一切衆生一衆生・非一非一切、一国土一切国土・一切国土一国土・非一非一切、一相一切相・一切相一相・非一非一切、乃至、一究竟一切究竟・一切究竟一究竟・非一非一切を解せば、遍く一切に歴て、皆な是れ不可思議境なり。若し法性と無明は合わせて一切法の陰・界・入等有らば、即ち是れ俗諦なり。一切の界・入は是れ一法界ならば、即ち是れ真諦なり。非一非一切は即ち是れ中道第一義諦なり。是の如く遍く一切の法に歴ば、不思議の三諦に非ざること無し、云云。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、592頁)

と述べている。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第65回 正修止観章㉕

[3]「2. 広く解す」㉓

(9)十乗観法を明かす⑫

 ③不可思議境とは何か(10)

(7)化他の境を明かす(2)

 以下、為人悉檀(一切の善法を生ずることに関する)・対治悉檀(一切の悪法を対治することに関する)の説明が続くが、この説明を省略し、最後の第一義悉檀についての『摩訶止観』の説明を引用する。

 云何んが第一義悉檀もて心は理を見ることを得ん。「心は開け意は解(と)けて、豁然(かつねん)として道を得」と言うが如し。或いは、縁は能く理を見ると説く。「須臾(しゅゆ)も之れを聞かば、即ち三菩提を究竟することを得」と言うが如し。或いは、因縁は和合して道を得と説く。「快馬(けめ)は鞭の影を見て、即ち正路を得るが如し」と。或いは、離して能く理を見ると説く。「無所得は即ち是れ得にして、已に是れ得は無所得なり」と言うが如し。是れ第一義の四句に理を見ると名づく。何に況んや心は三千の法を生ずるをや。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、588頁)

と。ここでは、理を見ることについて四つの立場(自・他・共・離)を肯定する経典を引用している。第一に(自の立場)心が理を見ることについては、「心がぱっと開けて、すっきりと覚りを得る」という文を引用しているが、出典は不明である。 続きを読む