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『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第48回 正修止観章⑧

[3]「2. 広く解す」⑥

(7)灌頂による十六の問答①

 さらに、その後、灌頂の「私料簡」(個人的に問答考察すること)の段があり、十六個の問答がある。順に紹介する。

①第一の問答:十種の対象界の十について

 法(存在者)は塵や砂のように数が多いのに、対象界はどうして十種と確定しているのかという質問が立てられる。これに対して、『華厳経』の「一つの大地がさまざまな芽を生じることができるようなものである」(※1)という比喩を引用して、十という数はちょうど詳細でも簡略でもなく、内容をはっきり理解し易くさせるために十種というだけであると述べている。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第47回 正修止観章⑦

[3]「2. 広く解す」⑤

(6)「2.6. 互発を明かす」③

②雑・不雑

 不雑とは、一つの対象界を生じてから、あらためて他の一つの対象界を生じるというように、明確な区別があるような対象界の生じ方を意味する。これに対して、雑とは、陰入(五陰・十二入)の対象界を生ずるとすぐに、別の煩悩を生じたり、煩悩がまだなくならないうちに、別の業・魔・禅・見・慢などがかわるがわる生じたり、二つ重なって生じたりする場合をいう。

③具・不具

 具・不具とは、対象界の十の数がすべて備わるのを具と名づけ、九以下を不具と名づけるとされる。上に述べた次第・不次第や雑・不雑についても、具(十の対象界がすべて備わること)・不具(九以下の対象界が備わること)を論じる。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第46回 正修止観章⑥

[3]「2. 広く解す」④

(6)「2.6. 互発を明かす」②

 前回は「2.6. 互発を明かす」の段の途中までを解説した。「互発」には九双七隻(くそうしちせき)があり、九双は、次第・不次第、雑・不雑、具・不具、作意・不作意、成・不成、益・不益、久・不久、難・不難、更・不更であり、七隻は三障・四魔を指す。前回は、このなかで最初の「次第・不次第」のなかの「法の不次第」の途中までを解説した。そこでは、十境それぞれがそのまま法界であることを洞察することを明らかにしており、病患がそのまま法界であることまでを紹介した。今回は第四の業相の境から説明する。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第45回 正修止観章⑤

[3]「2. 広く解す」③

(3)「2.3. 位を判ず」

 ここでは、ごく簡潔に「此の十種の境は、始め凡夫の正報自り、終わり聖人の方便に至る」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、522頁)と述べている。第一の対象界である陰・界・入境が凡夫の正報(過去世の業の果報として受けるので正報といい、衆生の身心をいう)といい、第十の菩薩境が聖人の方便とい言われているのである。

(4)「2.4. 隠顕を判ず」

 この段には、ある対象界が現れるか、隠れるかについて述べている。具体的には、「陰・入の一境は、常に自ら現前す。若しは発するも、発せざるも、恒(つね)に観を為すことを得。余の九境は発せば、観を為す可きも、発せずば、何ぞ観ずる所あらん」(『摩訶止観』(Ⅱ)、522頁)と述べている。
 すでに述べたが、五陰・十二入の一つの対象界だけがいつも目の当たりに 存在しており、生じても生じなくても、常に観察することができる。ところが、その他の九種の対象界は生じれば観察することができるが、生じなければ観察できないとされる。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第44回 正修止観章④

[3]「2. 広く解す」②

(2)生起を明かす②

②煩悩境の順序

 五陰は四分煩悩(すべての煩悩を四つに分類したもので、貪欲・瞋恚・愚癡の三毒がそれぞれ単独に生起するものが三分で、三毒がいっしょに生起するものが等分で、合わせて四分となる)と結合しており、もし四分煩悩を観察しなければ、煩悩の盛んな活動を知覚できないといわれる。たとえて言えば、船の中に閉じ込もって、水の流れに従っていけば、激しい水の流れの勢いに気づかないが、逆に川の流れを遡(さかのぼ)れば、はじめて川の水が勢いよく流れていることがわかるようなものであるとする。五陰という煩悩の果報を観察した以上、煩悩という因を発動させるので、五陰の次に四分煩悩を論じるのである。

③病患境の順序

 病気には、色陰を構成する地・水・火・風の四大という身体の病気と、貪欲・瞋恚・愚癡の三毒という心の病気がある。身体の病気と心の病気は等しいので、迷いの心では覚知できないとされる。今、四大と四分煩悩をともに観察すれば、体脈や内臓を突き動かすので、四蛇(四大をたとえる)が偏って生起し、病気が生じるようになる。そこで、四分煩悩の次に病気を論じるのである。 続きを読む