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『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第103回 正修止観章 63

[3]「2. 広く解す」 61

(9)十乗観法を明かす㊿

 ⑫無法愛

 今回は、十乗観法の第十、「無法愛」(法に対する愛著をなくすこと)の段の説明である。
 この段の冒頭には、「第十に無法愛とは、上の九事を行じて、内外の障を過ぐれば、応に真に入ることを得べけれども、入らざる者は、法愛の住著を以て、前(すす)むことを得ざるなり」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。大正46、99下14~16)とある。つまり、これまで説明してきた十乗観法のなかの前の九つの事柄を行じて、内外の妨げを通過すれば、真に入ることができるはずであるが、真に入らない者は、法愛という執著によって進むことができないことを指摘している。
 次に、四善根(煖・頂・忍・世第一法)の第二の頂から悪道に落ちることを「頂堕(ちょうだ)」という。蔵教・通教・別教・円教の頂堕について述べているが、説明を省略する。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第102回 正修止観章 62

[3]「2. 広く解す」 60

(9)十乗観法を明かす㊾

 ⑪能安忍

 十乗観法の第九の「能安忍」について説明する。安忍とは、内外の名誉と恥辱に対して安らかに忍耐することである。『摩訶止観』には、「若し此の意を得ば、九境を須いず。若し未だ了せずば、当に更に広く明かすべし」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。大正46、99下13~14)とあるように、陰入界境に対する十乗観法のなかで、この第九の能安忍を実現できれば、煩悩境から菩薩境までの九境を必要としないこと、もしうまくいかなれば、九境について詳細に明らかにするべきであると述べている。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第101回 正修止観章 61

[3]「2. 広く解す」 59

(9)十乗観法を明かす㊽

 ⑩知次位(2)

 次に、円教の次位について説明する。『摩訶止観』の冒頭には、

 円教の次位の若(ごと)きは、菩薩境の中に於いて、応に広く分別すべし。但だ彼は証、今は修なるが故に、須(すべか)らく略して辨ずべし。四種三昧の修習の方便の若きは、通じて上に説けるが如し。唯だ法華懺(ほっけせん)のみ別して六時、五悔(ごげ)に約して、重ねて方便を作す。今、五悔に就いて、其の位の相を明かす。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、98上10~14)

と述べている。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第100回 正修止観章 60

[3]「2. 広く解す」 58

(9)十乗観法を明かす㊼

 ⑩知次位(1)

 今回は、十乗観法の第八、「知次位」(次位を知る)の段の説明である。「次位」は、修行の階位の意味である。修行の階位を知らないと、まだ悟っていないのに悟ったと思い込む増上慢に陥る危険性があるとされる。したがって、修行者に正しく階位を知らせる必要があるのである。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第99回 正修止観章 59

[3]「2. 広く解す」 57

(9)十乗観法を明かす㊻

 ⑨助道対治(対治助開)(6)

 通教と別教については、説明を省略する。円教については、

 復た次に、若し『殃掘摩羅経(おうくつまらきょう)』に、「所謂(いわゆ)る彼の眼根は、諸の如来に於いて常なり。具足して減無く修し、了了分明に見る」と云うが如くならば、彼は是れ九法界の眼根なり。「如来に於いて常なり」とは、九界は自ら各各真に非ずと謂うも、如来は之れを観ずるに、即ち仏法界にして、二無く別無し。「減無く修す」とは、諸根を観ずるに、即ち仏眼なり。一心三諦、円因は具足して、缺減有ること無し。「了了分明に見る」とは、実を照らすを「了了」と為し、権を照らすを「分明」と為す。三智は一心の中にあり、五眼は具足し、円かに照らすを、名づけて了了に仏性を見ると為すなり。「見る」は、円証を論じ、「修す」は因円を論ず。又た、「具足して修す」とは、眼根を観じて、二辺の漏を捨つるを、名づけて檀と為す。眼根は二辺の傷つくる所と為らざるを、名づけて尸と為す。眼根は寂滅して、二辺の動ずる所と為らざるを、名づけて羼提(せんだい)と為す。眼根、及び識は自然に薩婆若海(さばにゃかい)に流入するを、名づけて精進と為す。眼の実性を観ずるを、名づけて上定と為す。一切種智を以て、眼の中道を照らすを、名づけて智慧と為す。是れ眼根の「具足して減無く修す」と為す。減無く修するが故に、了了分明に眼の法界を見る。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、95中9-23)

と述べている。 続きを読む