摩訶止観入門」タグアーカイブ

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第80回 正修止観章㊵

[3]「2. 広く解す」㊳

(9)十乗観法を明かす㉗

 ⑥破法遍(8)

 (4)従仮入空の破法遍⑦

 ⑥四門の料簡

 この段では、蔵教・通教・別教・円教の四教それぞれの有門・無門(空門)・亦有亦無門・非有非無門の四門について述べている。ここでは円教の四門についてのみ簡潔に説明する。
 まず、「円教の四門は、妙理、頓説なれば、前の二種に異なり、円融無礙(むげ)なれば、歴別(りゃくべつ)に異なり」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、75上20~21)と述べている。つまり、円教の四門は、絶妙な理、円頓の説であるので、前の蔵教・通教の二種とも相違し、円かに融合し障礙がないので、別教の段階的なものとも相違すると指摘している。
 そのうえで、有門については、「見思の仮を観ずるに、即ち是れ法界にして、仏法を具足す。又た、諸法は即ち是れ法性の因縁にして、乃至、第一義も亦た是れ因縁なり」(同前、75上21~23)と述べている。つまり、見仮・思仮を観察すると法界であり、仏法(仏のすぐれた特質)を備える。さらに、諸法は法性の因縁であり、ないし第一義も同様に法性の因縁であると述べている。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第79回 正修止観章㊴

[3]「2. 広く解す」㊲

(9)十乗観法を明かす㉖

 ⑥破法遍(7)

 (4)従仮入空の破法遍⑥

 ④空観(4)

 今回は、十乗観法の第四「破法遍」の続きである。破法遍の段落のうち、前回は「広く破法遍を明かす」のなかの「竪の破法遍」・「従仮入空の破法遍」・「見仮従り空に入る観」について紹介した。「従仮入空」の「仮」には、見仮と思仮の二種があるので、「従仮入空の破法遍」の段は、「見仮従り空に入る観」、「思仮を体して空に入る」、「四門の料簡」の三段に分かれている。今回は、「思仮を体して空に入る」、「四門の料簡」について紹介する。 続きを読む

『摩訶止観』入門

菅野博史
菅野博史

第78回 正修止観章㊳

[3]「2. 広く解す」㊱

(9)十乗観法を明かす㉕

 ⑥破法遍(6)

 (4)従仮入空の破法遍⑤

 ④空観(3)

 以下、具体的に老子・荘子と釈尊との比較をテキストに沿って紹介する。この箇所は、『輔行』によれば九項目に分類されているので、これにしたがうのが便利であろう。また、解釈についても『輔行』を参照する。ただし、この比較は、智顗の時代までに中国に伝来した仏教の総体と老子の『道徳経』五千文とを比較したものも含まれており、公正な比較とは言えないと思うが、なかには興味深い論点もある。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第77回 正修止観章㊲

[3]「2. 広く解す」㉟

(9)十乗観法を明かす㉔

 ⑥破法遍(5)

 (4)従仮入空の破法遍④

 ④空観(2)

 次に、絶言を破ることについて、絶言は四句(自生・他生・共生・無因生)の外に出るといっても、十種の四句があるので、どの四句の外に出るのかと問い詰めている。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第76回 正修止観章㊱

[3]「2. 広く解す」㉞

(9)十乗観法を明かす㉓

 ⑥破法遍(4)

 (4)従仮入空の破法遍③

 今回は、十乗観法の第四「破法遍」の続きである。破法遍の段落のうち、これまでに「広く破法遍を明かす」のなかの「竪の破法遍」・「従仮入空の破法遍」・「見仮従り空に入る観」について紹介した。「従仮入空」の「仮」には、見仮と思仮の二種があるので、「従仮入空の破法遍」の段は、「見仮従り空に入る観」、「思仮を体して空に入る」、「四門の料簡」の三段に分かれている。
 「見仮従り空に入る観」の段は、「見仮を明かす」と「空観を明かす」の二段に分かれており、前回までに、「見仮を明かす」段を説明したので、今回は、「空観を明かす」段以下について紹介する。

 ④空観(1)

 空観は、従仮入空観の省略的表現である。「空観を明かす」段は、「仮を破する観」、「得失を料簡す」、「見を破する位を明かす」の三段に分かれる。
 まず、「仮を破する観」では、単の四見(有見・無見・亦有亦無見・非有非無見)、複の四見、具足の四見、無言説(絶言)の四見を破ることが説かれている。『摩訶止観』では、はじめに単の四見のなかの有見を破ることについて詳細に説明している。有見は三仮(因成仮・相続仮・相待仮)を備えており、虛妄で実体がないことを述べたうえで、無明の本(根本)と諸見の末(枝末)がどちらも静寂であり、畢竟清浄であることを「止」といい、無明と法性が相即して虚空のようであると観察して、畢竟清浄であることを「従仮入空観」というと述べている。 続きを読む