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『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第101回 正修止観章 61

[3]「2. 広く解す」 59

(9)十乗観法を明かす㊽

 ⑩知次位(2)

 次に、円教の次位について説明する。『摩訶止観』の冒頭には、

 円教の次位の若(ごと)きは、菩薩境の中に於いて、応に広く分別すべし。但だ彼は証、今は修なるが故に、須(すべか)らく略して辨ずべし。四種三昧の修習の方便の若きは、通じて上に説けるが如し。唯だ法華懺(ほっけせん)のみ別して六時、五悔(ごげ)に約して、重ねて方便を作す。今、五悔に就いて、其の位の相を明かす。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、98上10~14)

と述べている。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第100回 正修止観章 60

[3]「2. 広く解す」 58

(9)十乗観法を明かす㊼

 ⑩知次位(1)

 今回は、十乗観法の第八、「知次位」(次位を知る)の段の説明である。「次位」は、修行の階位の意味である。修行の階位を知らないと、まだ悟っていないのに悟ったと思い込む増上慢に陥る危険性があるとされる。したがって、修行者に正しく階位を知らせる必要があるのである。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第99回 正修止観章 59

[3]「2. 広く解す」 57

(9)十乗観法を明かす㊻

 ⑨助道対治(対治助開)(6)

 通教と別教については、説明を省略する。円教については、

 復た次に、若し『殃掘摩羅経(おうくつまらきょう)』に、「所謂(いわゆ)る彼の眼根は、諸の如来に於いて常なり。具足して減無く修し、了了分明に見る」と云うが如くならば、彼は是れ九法界の眼根なり。「如来に於いて常なり」とは、九界は自ら各各真に非ずと謂うも、如来は之れを観ずるに、即ち仏法界にして、二無く別無し。「減無く修す」とは、諸根を観ずるに、即ち仏眼なり。一心三諦、円因は具足して、缺減有ること無し。「了了分明に見る」とは、実を照らすを「了了」と為し、権を照らすを「分明」と為す。三智は一心の中にあり、五眼は具足し、円かに照らすを、名づけて了了に仏性を見ると為すなり。「見る」は、円証を論じ、「修す」は因円を論ず。又た、「具足して修す」とは、眼根を観じて、二辺の漏を捨つるを、名づけて檀と為す。眼根は二辺の傷つくる所と為らざるを、名づけて尸と為す。眼根は寂滅して、二辺の動ずる所と為らざるを、名づけて羼提(せんだい)と為す。眼根、及び識は自然に薩婆若海(さばにゃかい)に流入するを、名づけて精進と為す。眼の実性を観ずるを、名づけて上定と為す。一切種智を以て、眼の中道を照らすを、名づけて智慧と為す。是れ眼根の「具足して減無く修す」と為す。減無く修するが故に、了了分明に眼の法界を見る。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、95中9-23)

と述べている。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第98回 正修止観章 58

[3]「2. 広く解す」 56

(9)十乗観法を明かす㊺

 ⑨助道対治(対治助開)(5)

 次に、一つの問答がある。『摩訶止観』には、

 問うて曰わく、助道を修せず、三昧は成ぜざれば、六度は応に道品に勝(まさ)るべしや。
 答う。此れに三句有り。六度は道品を破し、道品は六度を破すること、六度は道品を修し、道品は六度を修すること、六度は即ち道品、道品は即ち六度なることなり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、94下9~12)

とある。六度と三十七道品との関係をめぐる問題であるが、両者がたがいに破るという相破、たがいに修行するという相修、たがいに同一であるとする相即の三句の関係が立てられている。相破は六度と道品が単独では修行の効果がない場合であり、相修は先に六度を修行し、さらに進んで道品を修行したり、先に道品を修行し、さらに進んで六度を修行したりする場合であり、相即は六度と道品がいずれも摩訶衍(大乗)であり、別のものではなく、不可得(空)であるということである。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第97回 正修止観章 57

[3]「2. 広く解す」 55

(9)十乗観法を明かす㊹

 ⑨助道対治(対治助開)(4)

 今回は、十乗観法の第六、「助道対治」(対治助開)の段の説明の続きである。前回は、智慧(般若)波羅蜜の説明の段に示される四顚倒を破るなかで、浄の顚倒と楽の顚倒を破ることまで説明した。今回は常の顚倒と我の顚倒を破ることから説明を始める。
 常の顚倒を破ることについては、生命の無常性について次のように述べている。無常という殺人鬼は、豪傑や賢人を選ばず誰にでも襲いかかるものなので、安心して百歳の寿命を希望することはできないし、突然死ぬ場合、あらゆる財産や金銭はむなしく他人の所有となり、暗くただひとり死んでゆく。もし無常を悟るならば、暴水、猛風、電光よりも速く、どこにも逃げ避ける場所がないので、争って火宅を脱出し、早く火事から免れ救われることを求めるように戒めている。以上が常の顚倒を破ることである。 続きを読む