『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第87回 正修止観章㊼

[3]「2. 広く解す」㊺

(9)十乗観法を明かす㉞

 ⑥破法遍(15)

 (6)横の破法遍

 破法遍全体は、大きく「竪(縦)の破法遍」、「横の破法遍」、「横竪(おうじゅ)不二の破法遍」の三段に分かれるが、以下、第二段の「横の破法遍」について説明する。
 これまで説明してきた竪(縦)の破法遍は、無生門という一門に焦点をあわせて、縦に空観・仮観・中観を修行して、空仮中の三諦を徹底的に照らして、法を遍く破った。横とは、無生門以外のその他多くの門を意味する。たとえば、『中論』の冒頭に出る八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)(※1)は八門を意味するように、さまざまな経論には無量の門があるとされる。
 さらに、『摩訶止観』には、無生門を取りあげて、無生門の働きを詳しく説明し、それは他の門においても同様であることを指摘している。たとえば、無生門が一つの五陰・十八界・十二入は一切の五陰・十八界・十二入であり、一つの性・相・体・力は一切の性・相・体・力などであると観察するならば、あるいは真正の菩提心を生じ、四弘誓願を起こすならば、無生門以外の他の門も同様であることを詳細に述べているが、説明は省略する。
 もしこのように無生門について、また他の門について理解できれば、『諸法無行経』の無行の門や、『金剛般若経』の不住の門(※2)についても理解できるはずであると述べられる。
 最後に問答が設けられている。無生の一門によって一切の仏法を述べるのであるから、さらにどうして他の門を用いるのかという質問が提示される。この質問に対しては、人の機根には多様性があるので、他の門も必要となると答えている。例として、『維摩経』巻中、入不二法門品において、三十二人の菩薩(法自在菩薩から楽実菩薩までの三十一人の菩薩と文殊菩薩を合わせた数)は、それぞれ自分が不二法門に入ることを説くことを取りあげている(大正14、550中~551下を参照)。

 (7)横竪不二の破法遍

 次に、第三段の「横竪不二の破法遍」の段について説明する。科文の名としては、「非横非竪の破法遍」、「横竪一心の破法遍」などともいわれる。その冒頭には、

 第三に横竪の一心に止観を明かさば、上に説ける所の如き横竪は深広(じんこう)にして、一切の邪執を破し、一切の経論を申べ、一切の観行を修し、一切の根縁に逗(ず)す。廻転(えてん)は窮まり無く、言は煩わしく見難し。今当に結束して其の正意を出だすべし。若し無生門は千万重畳(ちょうじょう)なれども、秖(た)だ是れ無明の一念の因縁もて生ずる所の法は、即空・即仮・即中の不思議の三諦、一心三観、一切種智、仏眼等の法なるのみ。無生門は既に爾れば、諸余の横門も亦復た是くの如し。種種に説くと雖も、秖だ一心三観なり。故に横無く竪無し。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正 84中24~下2)

とある。これまで説いてきた横・竪(縦)の破法遍は、一切の邪執を破り、一切の経論について述べ、一切の観心修行を修め、一切の衆生の根縁に投合するものであった。その内容は煩雑なものであったが、その中心的な意味は、無明の一念の因縁によって生じる法は、即空・即仮・即中の不思議の三諦であり、一心三観であり、一切種智であり、仏眼などの法であることであった。したがって、究極的には一心三観であり、それには横もなく縦もないことになる。そこで、第三段として「横竪不二の破法遍」を説いて、一心三観によってこそ破法遍が完成することを示そうとするのである。
 この段は、さらに「総じて一心を明かす」と「余に歴(ふ)る一心」の二段に分かれる。
 はじめに「総じて 一心を明かす」段では、無明の一念の心に焦点をあわせ、この心に三諦を備えること、一観を深く理解する場合、この一観に三観を備えることを説いている。
 もしこれまでの横・竪(縦)の諸説を理解しなければ、このような境(円融の三諦)・智(一心三智)は理解することができない。したがって、前の横・竪(縦)の破法遍を踏まえて、今の非横非竪の破法遍が理解できることになる。たとえば、次のように説明されている。今は一心の因縁によって生じる法を聞けば、これまでの一切の次第の因縁によって生じる法をはるかに超え、不可思議の因縁によって生じる法をはるかに知ること、今一心はとりもなおさず空であると聞いて、これまでの次第の空をはるかに超え、不可思議の究極的な絶妙な空をはるかに知ること、今一心はとりもなおさず仮であると聞いて、これまでの次第の仮をはるかに超え、二諦をどちらも照らす仮をはるかに知ること、今非空非仮を聞けば、これまでの空はすべて空でなく、仮はすべて仮でないことをはるかに超えること、今非有非無を聞いて、これまでの非有非無をはるかに超えて、中道不可思議の非有非無をはるかに知ることなどが説かれ、このような三諦を一心において理解する者は得難い存在であると述べている。
 また、貪欲・瞋恚・愚癡の三毒を生起する心が即空・即仮・即中であり、心が念(思い)を生起するにしたがって、止観が完備すること、この場合の観を仏の知と名づけ、止を仏の見と名づけ、一瞬一瞬のうちに、止観が前に現われることは、とりもなおさず衆生が仏知見を開くことであると述べられる。このような観が成就する過程に菩薩の位を当てはめて述べているが、説明は省略する。
 次に、「余に歴る一心」の段では、無明以外の他の心、たとえば欲心、瞋心、慢心を経歴して一心三観を修行することが説かれている。欲心、瞋心、慢心などの心が生起する場合、これらの心は即空・即仮・即中であると述べられる。
 以上、ただ識陰を観察して破法遍を説いてきたが、当然、他の四陰(色陰・受陰・想陰・行陰)についても同様であり、十二入・十八界についても同様であると指摘している。これで、巻第五下、巻第六上、巻第六上にわたって説かれてきた破法遍の説明が終わった。ただし、最後に、三つの問答が展開されている。ここでは、第一問答についてのみ簡潔に紹介する。
 第一の問答の要点は次の通りである。入仮のなかには五因縁(大悲・本誓・利智・方便・精進)があるが、入空にも解脱のため、他者を解脱させるため、慧命のため、無漏のため、法位のためであるという五因縁があることが説かれる。
 次に、入空には四門(有門・空門・亦有亦空門・非有非空門)によって問答考察するが、仮・中のなかにない理由について、空観は、小乗・大乗、偏(偏頗な教である蔵教・通教・別教)・円(完全な教である円教)に共通するものであり、混乱させないようにするために、四門によって問答考察をしたとされる。仮・中は大乗だけで、小乗を混じえないので、四門を用いないとされる。
 また、智障と煩悩障についてさまざまに説いているが、説明は省略する。

(注釈)
※1 『中論』巻第一、観因縁品、「不生亦不滅 不常亦不断 不一亦不異 不来亦不出 能く是の因縁を説き、善く諸の戯論を滅す。我れは稽首して仏は諸説の中の第一なりと敬す」(大正30、1中14~17)を参照。
※2 『金剛般若経』、「菩薩は法に於いて、応に住する所無くして、布施を行ずべし。謂う所は、色に住せずして布施し、声・香・味・触・法に住せずして布施す。須菩提よ、菩薩は応に是の如く布施し、相に住せざるべし。何を以ての故に。若し菩薩は相に住せずして布施せば、其の福徳は思量す可からざればなり」(大正8、749上12~16)を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。