『摩訶止観』入門

創価大学教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第7回 発大心(1)

 前回までで「序分(縁起)」の説明が終わり、今回から「正説分」、つまり『摩訶止観』の本論に入る。正説分は、標章、生起、分別、料簡、広説からなっている。広説は、いわば『摩訶止観』全体の構成を意味し、五略十広といわれる。「十広」とは、大意・釈名(しゃくみょう)・体相・摂法(しょうぼう)・偏円(へんえん)・方便・正観(しょうがん)・果報・起教(ききょう)・旨帰(しき)の十章を指す。

[1]生起

 この十章の相互関係については、「生起」において、次のように説かれている。

 生起は、専ら十章を次第するなり。至理(しり)は寂滅にして、生無く生者無く、起無く起者無し。因縁有るが故に、十章は通じて是れ生起なり。別して論ずれば、前の章を生と為し、次の章を起と為す。縁由(えんゆ)、趣次も亦復た是の如し。謂う所は、無量劫より来(このかた)、癡惑(ちわく)に覆われて、無明は即ち是れ明なることを知らず。今、之れを開覚するが故に、大意と言う。既に無明は即ち明なりと知れば、復た流動(るどう)せず。故に名づけて止と為す。朗然(ろうねん)として大いに浄く、之れを呼びて観と為す。既に名を聞けば、体を得。体は即ち法を摂(しょう)し、偏円を摂す。偏円の解を以て、方便を起こす。方便は既に立つれば、正観は即ち成ず。正観を成じ已れば、妙なる果報を獲(う)。自得の法従(よ)り、教を起こし他を教え、自他倶に安んじ、同じく常寂に帰す。秖(た)だ生無く起無きに達せざるが為めに、是の故に生起す。既に生無く起無きことを了すれば、心行は寂滅し、言語の道は断え、寂然として清浄なり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)42頁)

 生起とは、AがBを生起することを意味するので、AとBの次第順序を決める意味となる。無量劫という長い間、迷いに覆われて、無明即明を知らなかったが、今、このことを悟るので、第一章の大意という。無明即明を知るので、心が流動しないことを止と名づけ、明るく清浄であることを観と呼ぶ。これは第二章の釈名(相待止観と絶待止観を明らかにする)である。名を聞いて本体を得ることは、第三章の体相(三止三観と円頓止観を明らかにする)である。本体がすべての法を包摂することは、第四章の摂法(止観が一切の仏法を具足することを明らかにする)であり、偏と円を包摂することは、第五章の偏円(三蔵教の析法の止観から別教の止観までをすべて偏とし、円教の止観の一心三観だけを随自意の語であるという理由から円とする)である。この偏と円とを理解することによって、第六章の方便(正観の準備的修行で、二十五方便を説く)を生ずる。方便が確立すると、第七章の正観(正しく止観を修すること)が成就する。正観が成就すると、第八章の果報を得る。自ら得た法から教えを起こして他を教えることが、第九章の起教である。自他ともに安らかで、ともに永遠の静寂に帰着することが、第十章の旨帰である。
 この十章のなかの第一章「大意」が、発大心・修大行・感大果・裂大網・帰大処の五節に分かれる。これを「五略」と呼んでいる。

[2]発大心

 今回は、第一節の「発大心」について説明する。発大心は、発菩提心のことで、菩提は後述するように、「道」と漢訳されるので、菩提心は道心ともいわれる。この節は、方言・簡非(けんぴ)・顕是(けんぜ)の三項からなっている。順に説明する。
 第一項の「方言」とは、方域の言という意味で、この場合は、インドと中国の言語を指す。つまり、ここでは「菩提心」についての字義解釈をなしているのであるが、これについてインドと中国の言語から説明している。

 菩提とは、天竺の音なり。此の方には道と称す。質多(しった)とは、天竺の音なり。此の方には心と言う。即ち慮知の心なり。天竺に又た汗栗駄(うりつだ)と称す。此の方には是れ草木の心と称するなり。又た矣栗馱(いりつだ)と称す。此の方には是れ精要(しょうよう)を積聚(しゃくじゅ)する者を心と為すなり。(『摩訶止観』(Ⅰ)48頁)

 発大心は、発菩提心のことである。菩提=仏の覚りに向けて自分の心を生ずることである。菩提はボーディ(bodhi)の音写語であり、道と漢訳される。中国仏教の初期の時代には、仏教のインド語をかなり大胆に漢訳していた。たとえば、ボーディ(bodhi)を道(菩提と音写する)と漢訳する以外に、ニルヴァーナ(nirvāṇa)は無為(涅槃と音写する)、アルハット(arhat)は真人(阿羅漢と音写する)、パーラミターは度無極(波羅蜜と音写する)とそれぞれ漢訳した。ここに出る道、無為、真人、度無極は、いずれも『老子』、『荘子』に出る用語である。さすがに、中国は仏教が伝来する以前に、高度な漢字文化、思想を発展させていたので、仏教の重要語を中国の語彙を活用して漢訳したのである。しかし、これは一面、中国の文化、思想にとって新しい仏教の思想、概念を、既成の中国の文脈の上に置いて理解することであるので、場合によっては誤解の危険性も高くなるはずである。このような判断があったのか、仏教の重要語に対しては、あえて音写語を用いることが多くなったのではないかと推定される。
 『摩訶止観』では、菩提心=道心を解釈するにあたって、まず「心」について説き、次に「道」について説いている。
 さて、質多はチッタ(citta)の音写であり、心と漢訳される。対象をとらえて思いはかる、思慮分別するという意味で、慮知心をいう。他の二つの音写語である汗栗駄も矣栗馱も同じくフリダヤ(hṛdaya)の音写語であるはずである。したがって、この二つの語に、智顗(ちぎ)のいうような意味の相違があるはずもないのであるが、便宜的に、音写語の違いに基づいて、フリダヤの意味を二つに分けて示したものであろう。
 このフリダヤは心、精神、心臓を意味する中性名詞であり、肉団心、真実心、堅実心と漢訳され、思慮分別する心とは区別される。草木の心(芯)のように、そのものの持つ本質、中心という意味や、『般若心経』の「心」のように、心髄精要という意味を持つ。中国語の「心」には、思慮、真ん中にあるもの、重要なものという意味が備わっているので、菩提心の心は慮知心を指すと断っているのである。これが非を簡(えら)ぶ項(第二項の「簡非」)の一つの内容である。「簡ぶ」とは、選び取ると、選び捨てるの二つがあるが、ここでは、非なるものを捨てるという意味である。「心」については、草木心、積聚精要の心を捨てて、慮知心を取るのである。
 「道」については、十種の道をあげて、これらすべては、菩提心の菩提(道)ではないと否定している。十種の道を参考までに列挙する。

 上品の十悪→地獄心→火途道
 中品の十悪→畜生心→血途道
 下品の十悪→鬼心 →刀途道
 下品の善心――――→阿修羅道
 中品の善心――――→人道
 上品の善心――――→天道
 欲界主心―――――→魔羅道
 世智心――――――→尼犍道
 梵心―――――――→色・無色道
 無漏心――――――→二乗道

 第三項の 「是を顕わす」(顕是)とは、肯定的なものを示すという意味で、四諦、四弘誓願(しぐぜいがん)、六即の三種について説いている。これは次回以降、 説明する。

(連載)『摩訶止観』入門:
シリーズ一覧 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回(4/14掲載予定)

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。