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芥川賞を読む 第67回 『送り火』高橋弘希

文筆家
水上修一

圧倒的存在感で描いた快楽としての暴力

高橋弘希(たかはし・ひろき)著/第159回芥川賞受賞作(2018年上半期)

美しい描写から浮かび上がる凄惨さ

 選考委員の小川洋子が「他の候補作を圧倒する存在感を放っていた」と述べた高橋弘希の「送り火」。
 津軽地方の山間部にある、時代から取り残されたような過疎地域。生徒数の減少で廃校となる予定の中学校に、東京から越してきた主人公の歩。父親の仕事の影響で転校には慣れている彼は、新しい中学校でも要領よく同級生と馴染んだかのように見えたのだが、そこには歩がこれまで見聞きしたこともない、おぞましいほどの暴力の連鎖が隠されていた。
 選考にあたっては意見が二分していたようだが、その焦点となったのはまさにその暴力。否定的な意見で多かったのは、作者がその暴力を通して何を描こうとしているのかが分からないという意見である。 続きを読む

芥川賞を読む 第66回 『おらおらでひとりいぐも』若竹千佐子

文筆家
水上修一

孤独と老いに向き合う東北弁の老婦人

若竹千佐子(わかたけ・ちさこ)著/第158回芥川賞受賞作(2017年下半期)

老いを思弁する

 芥川賞作家の受賞年齢は、だいたい30~40代が多いのだが、ダブル受賞となった第158回は、前回取り上げた「百年泥」の石井遊佳が54歳、今回、取り上げる「おらおらでひとりいぐも」の若竹千佐子が63歳と、いずれもある程度の年配者だったのがひとつの特徴だった。
 若竹は、55歳の時に夫に先立たれ、長男のすすめで小説講座に通い始めたのが小説に取り組むきっかけだった。2017年に同作で第54回文藝賞を受賞してデビューし、翌年2018年に芥川賞を受賞。2020年には田中裕子の主演で映画化もされている。まさに、人生どこでどうなるか分からない。 続きを読む

芥川賞を読む 第65回 『百年泥』石井遊佳

文筆家
水上修一

百年分の記憶が入り乱れるマジックリアリズム小説

石井遊佳(いしい・ゆうか)著/第158回芥川賞受賞作(2017年下半期)

エネルギッシュなインドの混沌

「百年泥」で芥川賞を受賞した石井遊佳は、初候補での受賞。当時54歳。
 舞台は、インド南部の街チェンナイ。百年に一度の大洪水で街中が水浸しとなった。主人公の「私」は、勤務先である日本語教室に歩いていくため、川にかかる大きな橋を渡ろうとしたのだが、そこは行き交う人と車で大混乱。しかも、橋の両端には山のように積み上げられた泥と廃棄物で溢れていた。その泥は、川底に長年蓄積されてきた、まさに百年分の汚泥であり、その百年分の記憶が白日の下に晒されたのだ。
 作品は、現実世界をリアルに描写しながら非現実的で幻想的な要素を織り交ぜていくマジックリアリズム小説である。現実である日本語教室での授業の様子をベースに置きながら、大洪水で混乱する橋の様子の中にさまざまな幻想を入れ込んでいく。 続きを読む

芥川賞を読む 第64回 『影裏』沼田真佑

文筆家
水上修一

崩壊の予感漂う、寄る辺のない孤独

沼田真佑(ぬまた・しんすけ)著/第157回芥川賞受賞作(2017年上半期)

唯一心を許した男の失踪

 受賞作「影裏」(えいり)の舞台は、岩手県。主人公の「わたし」が唯一心を許していたのは、日浅(ひあさ)という男。事あるごとに酒を酌み交わし、豊かな水流が美しい川辺で釣りに興じる2人。だが、些細な出来事をきっかけに疎遠になり、やがて日浅は失踪。その行方を追ううちに、「わたし」は日浅の〝もうひとつの顔〟を目の当たりにし、その光と影に向き合う。岩手の豊かな水と緑の中で描かれる世界は、薄暗いひんやりとした手触りが美しく、不気味でもある。
 柱となるのは、「わたし」と日浅の関わりなのだが、途中で「わたし」が過去に付き合ったゲイの恋人や、東日本大震災の話が出てくる。ただ、いずれも作品の中にひっそりと紛れ込ませるような描き方なので、それが決して作品の主題ではないことは分かる。それでも、それぞれの素材が、「影裏」というタイトルからイメージされる、人間の影の部分や裏の顔というものを浮き上がらせるのに効果的な役割を果たしている。それは、薄暗くひんやりとした情景描写と同じように、孤独で、不安げだ。
 普通、芥川賞の選評を丹念に読むと、何が評価され何が不評だったか、ある程度の輪郭が見えてくるのだが、「影裏」に対する選評にははっきりした対立軸が見えない。各選考委員がそれぞれの視点で高評価し、あるいは低評価をしている。それだけ複雑で多面的な作品と言えるのかもしれない。 続きを読む

芥川賞を読む 第63回 『しんせかい』山下澄人

文筆家
水上修一

ありきたりの青春小説らしからぬ青春小説

山下澄人(やました・すみと)著/第156回芥川賞受賞作(2016年下半期)

舞台は、実在した北海道の演劇塾

 山下澄人の作品が初めて芥川賞候補になったのは、2012年。その後、立て続けに候補となり、2016年、4回目の候補作「しんせかい」で芥川賞を受賞。当時50歳。その20年前の1996年には「劇団FICTION」を立ち上げ、今に至るまで主宰しているので、小説よりも演劇活動の方が長い。
「しんせかい」は、有名な脚本家が北海道に設立した演劇塾が舞台だ。語り部は、作者と同名の「スミト」なので、私小説と言っていいだろう。作者のプロフィールを見ると、確かに2年間、その演劇塾に在籍している。
 物語は、俳優と脚本家を夢見る若者たちが、何もない北海道の大地の中で、共同生活をするための建物を建て、生活費を稼ぐために農作業に従事し、その合間を縫うように演劇の勉強をする。そこでの生活は、周辺の地元民からは「収容所」と呼ばれるほどの過酷なものだった。
 もちろん小説であるから実体験と創造が入り混じっていることは当然だとしても、実在した演劇塾に対する興味は読者としてかき立てられる。ところが、物語としての本作品は、極めて淡白なのだ。 続きを読む