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芥川賞を読む 第68回 『ニムロッド』上田岳弘

文筆家
水上修一

文明の行きつく先にある哀惜感

上田岳弘(うえだ・たかひろ)著/第160回芥川賞受賞作(2018年下半期)

収斂していくさまざまな仕掛け

 文明を極限まで進化させて行った時、果たして人間は幸福なのか。文明社会の中で生きる私たちの多くが一度は考えたことのあるテーマについて、論文として〝考える〟のではなく、文学という芸術手法によって〝感じさせる〟作品である。
 上田岳弘の「ニムロッド」の主な登場人物は、3名。多数のサーバーを運用するデータセンターで働く主人公の「僕」。日々サーバーの不具合をチェックする仕事をこなしていたが、ある時期から空いたサーバーを利用して仮想通貨によって金を稼ぐ仕事を任せられた。そんな「僕」の彼女は、外資系証券会社で働く社員、田久保紀子。前の夫との間にできた子どもを出生前検査の結果を受けて堕胎した過去を持ち、二度と結婚するつもりも子どもを産むつもりもない。そして、主人公の先輩である自称「ニムロッド」は、文学賞の最終選考に3度残った小説家志望の男性。世に出ることを諦めたが、自らのために小説を書き続けている。 続きを読む

芥川賞を読む 第67回 『送り火』高橋弘希

文筆家
水上修一

圧倒的存在感で描いた快楽としての暴力

高橋弘希(たかはし・ひろき)著/第159回芥川賞受賞作(2018年上半期)

美しい描写から浮かび上がる凄惨さ

 選考委員の小川洋子が「他の候補作を圧倒する存在感を放っていた」と述べた高橋弘希の「送り火」。
 津軽地方の山間部にある、時代から取り残されたような過疎地域。生徒数の減少で廃校となる予定の中学校に、東京から越してきた主人公の歩。父親の仕事の影響で転校には慣れている彼は、新しい中学校でも要領よく同級生と馴染んだかのように見えたのだが、そこには歩がこれまで見聞きしたこともない、おぞましいほどの暴力の連鎖が隠されていた。
 選考にあたっては意見が二分していたようだが、その焦点となったのはまさにその暴力。否定的な意見で多かったのは、作者がその暴力を通して何を描こうとしているのかが分からないという意見である。 続きを読む

芥川賞を読む 第66回 『おらおらでひとりいぐも』若竹千佐子

文筆家
水上修一

孤独と老いに向き合う東北弁の老婦人

若竹千佐子(わかたけ・ちさこ)著/第158回芥川賞受賞作(2017年下半期)

老いを思弁する

 芥川賞作家の受賞年齢は、だいたい30~40代が多いのだが、ダブル受賞となった第158回は、前回取り上げた「百年泥」の石井遊佳が54歳、今回、取り上げる「おらおらでひとりいぐも」の若竹千佐子が63歳と、いずれもある程度の年配者だったのがひとつの特徴だった。
 若竹は、55歳の時に夫に先立たれ、長男のすすめで小説講座に通い始めたのが小説に取り組むきっかけだった。2017年に同作で第54回文藝賞を受賞してデビューし、翌年2018年に芥川賞を受賞。2020年には田中裕子の主演で映画化もされている。まさに、人生どこでどうなるか分からない。 続きを読む

芥川賞を読む 第65回 『百年泥』石井遊佳

文筆家
水上修一

百年分の記憶が入り乱れるマジックリアリズム小説

石井遊佳(いしい・ゆうか)著/第158回芥川賞受賞作(2017年下半期)

エネルギッシュなインドの混沌

「百年泥」で芥川賞を受賞した石井遊佳は、初候補での受賞。当時54歳。
 舞台は、インド南部の街チェンナイ。百年に一度の大洪水で街中が水浸しとなった。主人公の「私」は、勤務先である日本語教室に歩いていくため、川にかかる大きな橋を渡ろうとしたのだが、そこは行き交う人と車で大混乱。しかも、橋の両端には山のように積み上げられた泥と廃棄物で溢れていた。その泥は、川底に長年蓄積されてきた、まさに百年分の汚泥であり、その百年分の記憶が白日の下に晒されたのだ。
 作品は、現実世界をリアルに描写しながら非現実的で幻想的な要素を織り交ぜていくマジックリアリズム小説である。現実である日本語教室での授業の様子をベースに置きながら、大洪水で混乱する橋の様子の中にさまざまな幻想を入れ込んでいく。 続きを読む

芥川賞を読む 第64回 『影裏』沼田真佑

文筆家
水上修一

崩壊の予感漂う、寄る辺のない孤独

沼田真佑(ぬまた・しんすけ)著/第157回芥川賞受賞作(2017年上半期)

唯一心を許した男の失踪

 受賞作「影裏」(えいり)の舞台は、岩手県。主人公の「わたし」が唯一心を許していたのは、日浅(ひあさ)という男。事あるごとに酒を酌み交わし、豊かな水流が美しい川辺で釣りに興じる2人。だが、些細な出来事をきっかけに疎遠になり、やがて日浅は失踪。その行方を追ううちに、「わたし」は日浅の〝もうひとつの顔〟を目の当たりにし、その光と影に向き合う。岩手の豊かな水と緑の中で描かれる世界は、薄暗いひんやりとした手触りが美しく、不気味でもある。
 柱となるのは、「わたし」と日浅の関わりなのだが、途中で「わたし」が過去に付き合ったゲイの恋人や、東日本大震災の話が出てくる。ただ、いずれも作品の中にひっそりと紛れ込ませるような描き方なので、それが決して作品の主題ではないことは分かる。それでも、それぞれの素材が、「影裏」というタイトルからイメージされる、人間の影の部分や裏の顔というものを浮き上がらせるのに効果的な役割を果たしている。それは、薄暗くひんやりとした情景描写と同じように、孤独で、不安げだ。
 普通、芥川賞の選評を丹念に読むと、何が評価され何が不評だったか、ある程度の輪郭が見えてくるのだが、「影裏」に対する選評にははっきりした対立軸が見えない。各選考委員がそれぞれの視点で高評価し、あるいは低評価をしている。それだけ複雑で多面的な作品と言えるのかもしれない。 続きを読む