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芥川賞を読む 第44回 『時が滲む朝』楊逸

文筆家
水上修一

自由と民主化を求める中国青年の青春群像

楊逸(ヤン・イー)著/第139回芥川賞受賞作(2008年上半期)

読み手を惹きつける題材

 中国ハルビン市出身の作家・楊逸。日本語以外の言語を母語とする作家として史上初となる受賞が話題を集めた「時が滲む朝」。ところどころに違和感を覚える日本語表現があったとしても、おもしろく読むことができたのは、ひとえにその題材によるものだろう。
 自由と民主化を求める中国の若者たちが、天安門事件で人生の挫折を味わう青春群像は、自らの内側にばかり意識が向きがちな今の政治的に無関心な多くの日本人からすれば、極めてスリリングだし、国のために社会変革を求めるその純粋さはある意味新鮮に映る。だからこそ、次はどうなるのだろうと想像しながらページをめくってしまう。
 この作品を推す選考委員の多くが指摘していたのが「書きたいこと」のある強みである。池澤夏樹は、

ここには書きたいという意欲がある。文学は自分のメッセージを発信したいという意欲と文体や構成の技巧が出会うところに成立する

と言い、高樹のぶ子は、

書きたいことがあれば、それを実現するために文章もさらに磨かれるだろう。根本の熱がなければ、文学的教養もテクニックも空回りする

と述べている。 続きを読む

芥川賞を読む 第43回 『乳と卵』川上未映子

文筆家
水上修一

饒舌な口語体で描いた人物描写が鮮やか

川上未映子(かわかみ・みえこ)著/第138回芥川賞受賞作(2007年下半期)

登場人物の鮮やかな描写が読者を引き込む

「乳と卵」で芥川賞を受賞した川上未映子は、その後もさまざまな文学賞を受賞。2024年上半期の芥川賞からは、選考委員も務めており、作家デビュー前の2004年には、歌手としてアルバムも発表もしている。
「乳と卵」は、そのタイトルから想像されるように〝女性性〟をひとつの題材としている。
 主な登場人物は3人。東京で一人暮らしをしている主人公の「わたし」。大阪で暮らす姉の巻子と、その娘の緑子。2人は母子家庭。巻子は、夫と離婚して以降懸命に働いてきたが、現在は豊胸手術に執拗にこだわる。緑子は初潮を迎えたばかりの年代で、自らの胎内に無数の卵を持つことに違和感を持つ。
 この母子のコミュニケーションは、筆談のみ。言葉を発せないわけではない。娘の緑子が、言葉によるコミュニケーションを拒んでいるからだ。そんな娘の気持ちを理解できない巻子。一方、母に伝えたい自分の思いが何であるのかさえ分からず自分自身を持て余す緑子。そんな母子が豊胸手術のために上京し、「わたし」のアパートで過ごす。その3日間を描いている。 続きを読む

芥川賞を読む 第42回 『アサッテの人』諏訪哲史

文筆家
水上修一

自分と社会との違和感を乗り越えられない言葉の非力さ

諏訪哲史(すわ・てつし)著/第137回芥川賞受賞作(2007年上半期)

奇妙な意味不明の言葉

 選考委員の意見がいかにも賛否両論に分かれそうな「アサッテの人」。
「ポンパ」などと意味不明の言葉を突然口にする奇行を持つ叔父が失踪し、放置された空き家の後片付けのために甥の「私」がその部屋を訪れる。そこに残されていた叔父の日記や、語り部である「私」がその叔父をモデルに長年書き続けてきた小説の断片などを用いて、叔父が何を感じ、何を求めていたのか、その内面に迫ろうとする話である。そこから見えてくるものは、社会と自分とのどうにも折り合えない感覚だ。
 この小説の重要なテーマでもあり、またそれを表現する道具でもあるのが〝言葉〟だ。当然、言葉には意味があり、その意味するところによって個人と外界とはつながりを持つが、言うまでもなく言葉はその人の内面を100%ずれることなく的確に伝えることはできない。叔父が意味不明の言葉を発するのは、言葉の意味によって表現しようとするのではなく、意味のない「音」がより的確に自分の感じているものを表現できるからだ。こうして、他人が聞けば、奇妙に映る意味不明の言葉を発することによって、叔父は社会との違和感を埋めようとするのであろう。こうした感覚は、擬音語や擬態語といった音による表現を使いこなす日本人の感覚としては、比較的理解できると個人的には感じた。 続きを読む

芥川賞を読む 第41回 『ひとり日和』青山七恵

文筆家
水上修一

静かな筆で描く若い女性の孤独

青山七恵(あおやま・ななえ)著/第136回芥川賞受賞作(2006年下半期)

高齢女性と同居する若い女性の日常

 芥川賞の選考会では、強く推す選考委員が1人、2人いて、否定的な人も同程度いるというケースが多いのだが、この回ではほとんどの選考委員が本作品を推していた。普段は手厳しい評価の多い石原慎太郎さえも驚くほど高い評価だった。23歳という若さで受賞した青山七恵。彗星のごとく現れた才能だ。
 受賞作「ひとり日和」の主人公は、遠縁に当たる70過ぎの女性の家に居候する20歳のフリーターの「わたし」。春から冬までの1年間の暮らしを静かな筆で淡々と描いている。自分はいったい何をしたいのか、自分は何者かさえもよく分からない若い女性が、人生の春夏秋冬を味わい尽くした枯れた年齢の高齢女性と暮らす。
 舞台は、都会の開発に取り残されエリアの一角に立つ古びた木造家屋。その小さな庭の垣根の向こうには、細い道を1本隔てて駅のホームが見える。主人公にあてがわれた辛気臭い部屋の一室から「わたし」は、ホームと電車を眺め、あるいは逆にホームから自分の暮らす古びた部屋を見る。
 2人の恋人に順次去られるという出来事はあったものの、その生活は静かそのものだ。その静けさは、時代から取り残されそうでもあり、若ささえも吸い取られそうだ。
 こうした淡々とした描写から浮かび上がってくるものは、若い女性の孤独や虚無感だ。「ひとり日和」というタイトルが絶妙である。 続きを読む

芥川賞を読む 第40回 『八月の路上に捨てる』伊藤たかみ

文筆家
水上修一

夢破れながらも最後の勝ちを夢見る切なさが胸を打つ

伊藤たかみ(いとう・たかみ)著/第135回芥川賞受賞作(2006年上半期)

物語を構成する2つの軸

 第135回芥川賞を受賞した「八月の路上に捨てる」は、『文學界』に掲載された約105枚の短編だ。受賞当時35歳だった伊藤たかみは、その11年前の1995年に「文藝賞」を受賞して以降、「小学館児童出版文化賞」「坪田譲治文学賞」を受賞し、芥川賞候補にも二度上っており、満を持しての芥川賞受賞ということになる。
 主人公は、脚本家を夢見る若者、敦。自動販売機に飲料缶を補充して回るアルバイトで食いつなぐ。そのトラックを運転するのは、サバサバした気性の先輩女性で、敦は助手席でその彼女をサポートする。描かれている舞台は、わずか1日。暑い夏の日に都内の自販機を回る間、先輩女性が話題にするのは、目前に迫っている敦の離婚のこと。彼女自身も過去に離婚を経験していたがゆえに、敦とその妻に関することを根掘り葉掘り聞いてくるのである。そのやり取りの中で、主人公は妻との過去をさまざま回想する。
 物語の軸は2つある。ひとつは、その1日の仕事の流れで、そこで敦と先輩女性の会話が繰り広げられる。仕事の描写が非常にリアリティがあるゆえに物語への引き込みが強い。もうひとつは、仕事の合間に回想される、離婚に至るまでの経緯やそれに対する思いだ。この2つの軸があることによって、夫婦関係の破綻に至るまでの心理描写が平坦ではなく立体的なものになった。うまい構成だ。 続きを読む