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芥川賞を読む 第51回 『共喰い』田中慎弥

文筆家
水上修一

土着的世界の中で描かれた血と性の濃密な物語

田中慎弥(たなか・しんや)著/第146回芥川賞受賞作(2011年下半期)

確かな生の手触り

 第146回の芥川賞は、W受賞であった。前回紹介した円城塔の「道化師の蝶」と、今回取り上げる田中慎弥の「共喰い」である。「道化師の蝶」があまりにも難解で小説を味わう以前のところで頭を抱えたことに対して、「共喰い」は安心してその作品世界を堪能できた。前者が、選考委員の判断が分かれた実験的作品だとすれば、後者は、ほとんどの選考委員が高い評価を与えた古風な肌触りのする純文学である。
 舞台は下関の田舎町。主人公の遠馬(とおま)は17歳の男子高校生。異臭が漂う薄汚れた川が舞台の中心に流れている。川べりで魚屋を一人で営む実母は、捌いた魚の内臓をそのままその川に廃棄する。それを餌として集まるうなぎを釣るのが遠馬の楽しみ。遠馬が暮らすのは、その実母の家ではなく、近くにある父と義母の暮らす家。父と実母が別れた原因は、父の異常な性癖だった。 続きを読む

芥川賞を読む 第50回 『道化師の蝶』円城塔

文筆家
水上修一

難解な作品に対する期待

円城塔(えんじょう・とう)著/第146回芥川賞受賞作(2011年下半期)

選考委員も「分からない」

 本コラムでは、これまでも読むのが難儀な分かりづらい幾作品かの芥川賞作品を扱ってきたが、これほどまでに難しい作品は初めてだった。円城塔の「道化師の蝶」である。愚鈍な私の未熟な読解力ゆえの結果かと思いきや、『文藝春秋』(2012年3月号)の「芥川賞選評」を読んでみると、多くの選考委員が「分からない」と述べているではないか。少々、安堵。
 少し長くなるが、そのまま選考委員の選評を引用する。
 まずは黒井千次。

作品の中にはいって行くのが誠に難しい作品だった。出来事の関係や人物の動きを追おうとするとたちまち拒まれる。部分を肥大化させる読み方に傾きかけると、それもまたすぐ退けられる。つまり、読むことが難しい作品であり、素手でこれを扱うのは危険だという警戒心が働く

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芥川賞を読む 第49回 『きことわ』朝吹真理子

文筆家
水上修一

記憶を行き来する中で霞む存在の危うさ

朝吹真理子(あさぶき・まりこ)著/第144回芥川賞受賞作(2010年下半期)

多くの選考委員がその才能を評価

 前回取り上げた「苦役列車」とダブル受賞となったのが、朝吹真理子の「きことわ」だった。当時26歳。詩人で慶応大学教授の朝吹亮二の娘であり、フランソワーズ・サガンの翻訳を多く手がけた朝吹登水子を大叔母に持つという、いわばサラブレッドということもあって、受賞前から多くの関心を集めたようである。実際、選考会では少しの難点を指摘する声を除いて、多くの選考委員がその才能を高く評価している。

 主人公は永遠子(とわこ)と貴子(きこ)。初めての出会いは永遠子が15歳、貴子が8歳。貴子の両親が所有する葉山の別荘を管理していたのが逗子に住む永遠子の母親。その関係で、毎年夏になると2人は、その別荘でまるで本当の姉妹のように遊ぶのだった。
 やがて、貴子の家族が別荘に来ることがなくなって以降、2人は会うことも連絡を取り合うこともなくなり、再会したのが、その別荘を取り壊すことになった25年後のこと。永遠子も貴子もすでに大人になっていた。 続きを読む

芥川賞を読む 第48回 『苦役列車』西村賢太

文筆家
水上修一

社会の底辺を彷徨う私小説

西村賢太(にしむら・けんた)著/第144回芥川賞受賞作(2010年下半期)

目先の生理的欲望だけを追い求める

 新しい文学の形を求めるのが純文学の新人登竜門としての芥川賞のひとつの使命であるがゆえに、ある種実験的な手法を用いる作品が多いことも受賞作品の一面の特色であろう。だからこそ芥川賞は分かりづらいとか、おもしろくないといった評判が多いのも分かる。
 だが、西村賢太の受賞作「苦役列車」は、おもしろかった。
 主人公は、いわば社会的には最下層の若者だ。父親が性犯罪者となったことがきっかけで地元の街から逃げ出す母子二人。高校進学も諦めて都会の片隅の薄汚れたアパートで一人暮らしをする主人公・貫太は、汗で黒く変色した寝具のなかで寝起きする。彼にあるのは今日だけで、未来など関係ない。日々、目先の食欲と性欲と酒だけを追い求め、今日一日を生き延びるためだけに港湾荷役の日雇い仕事に従事する。家賃滞納と強制退去の繰り返し。
 それまでの人生の中でまともな友人関係はなかった貫太だが、職場で一人の専門学校生と知り合い妙に意気投合する。自分の得意とする風俗遊びと飲酒を彼と共有し絆を深めつつあったのだが、二人の生い立ちや生まれ持った性(さが)による壁は高く、二人の関係に亀裂が生じ始める。 続きを読む

芥川賞を読む 第47回 『乙女の密告』赤染晶子

文筆家
水上修一

『アンネの日記』の真実を探す女子大生

赤染晶子(あかぞめ・あきこ)著/第143回芥川賞受賞作(2010年上半期)

白熱したことが窺える選考会

 芥川賞選考委員の各選評は毎回、総合月刊誌『文藝春秋』に掲載される。全ての選考委員の選評を読むと、選考会でどのような議論がなされたのか、わずかに垣間見えることもあるのだが、第143回の受賞作、赤染晶子の「乙女の密告」については、例年にないほど白熱した議論が展開されたことが想像された。
 選考委員の小川洋子は、

議論の場ではかなり熱い言葉が行き交った。話し合いの中で新たな論点が次々と浮かび上がり、それに一生懸命ついてゆくうち、いつしか作品が受賞に相応しいかどうかの議論であるのを忘れた。賞の問題を超えて、もっと深く小説の世界に入り込み…

と述べている。
『文藝春秋』に掲載される「芥川賞選評」の、選考委員一人あたりの掲載ボリュームは約1ページ弱。そこでそれぞれの候補作について触れることが多いのだが、143回は大変な分量が「乙女の密告」にのみ割かれている。特に、小川洋子と池澤夏樹は2ページにも及ぶ選評をこの作品に割いている。それはまるで文芸評論だ。こんな回は珍しい。
 それはなぜか。そこに秘められた才能の大きさに惹きつけられたことはもちろん、もう一つは難解だからだと考えられる。「分からない」などという選評は選考委員には許されないのだろうが、『芥川賞の偏差値』を書いた作家の小谷野敦は(選考委員ではない)、同書で「私にはこの小説が何が言いたいのかさっぱりわからないのである」と告白している。 続きを読む