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芥川賞を読む 第41回 『ひとり日和』青山七恵

文筆家
水上修一

静かな筆で描く若い女性の孤独

青山七恵(あおやま・ななえ)著/第136回芥川賞受賞作(2006年下半期)

高齢女性と同居する若い女性の日常

 芥川賞の選考会では、強く推す選考委員が1人、2人いて、否定的な人も同程度いるというケースが多いのだが、この回ではほとんどの選考委員が本作品を推していた。普段は手厳しい評価の多い石原慎太郎さえも驚くほど高い評価だった。23歳という若さで受賞した青山七恵。彗星のごとく現れた才能だ。
 受賞作「ひとり日和」の主人公は、遠縁に当たる70過ぎの女性の家に居候する20歳のフリーターの「わたし」。春から冬までの1年間の暮らしを静かな筆で淡々と描いている。自分はいったい何をしたいのか、自分は何者かさえもよく分からない若い女性が、人生の春夏秋冬を味わい尽くした枯れた年齢の高齢女性と暮らす。
 舞台は、都会の開発に取り残されエリアの一角に立つ古びた木造家屋。その小さな庭の垣根の向こうには、細い道を1本隔てて駅のホームが見える。主人公にあてがわれた辛気臭い部屋の一室から「わたし」は、ホームと電車を眺め、あるいは逆にホームから自分の暮らす古びた部屋を見る。
 2人の恋人に順次去られるという出来事はあったものの、その生活は静かそのものだ。その静けさは、時代から取り残されそうでもあり、若ささえも吸い取られそうだ。
 こうした淡々とした描写から浮かび上がってくるものは、若い女性の孤独や虚無感だ。「ひとり日和」というタイトルが絶妙である。 続きを読む

芥川賞を読む 第40回 『八月の路上に捨てる』伊藤たかみ

文筆家
水上修一

夢破れながらも最後の勝ちを夢見る切なさが胸を打つ

伊藤たかみ(いとう・たかみ)著/第135回芥川賞受賞作(2006年上半期)

物語を構成する2つの軸

 第135回芥川賞を受賞した「八月の路上に捨てる」は、『文學界』に掲載された約105枚の短編だ。受賞当時35歳だった伊藤たかみは、その11年前の1995年に「文藝賞」を受賞して以降、「小学館児童出版文化賞」「坪田譲治文学賞」を受賞し、芥川賞候補にも二度上っており、満を持しての芥川賞受賞ということになる。
 主人公は、脚本家を夢見る若者、敦。自動販売機に飲料缶を補充して回るアルバイトで食いつなぐ。そのトラックを運転するのは、サバサバした気性の先輩女性で、敦は助手席でその彼女をサポートする。描かれている舞台は、わずか1日。暑い夏の日に都内の自販機を回る間、先輩女性が話題にするのは、目前に迫っている敦の離婚のこと。彼女自身も過去に離婚を経験していたがゆえに、敦とその妻に関することを根掘り葉掘り聞いてくるのである。そのやり取りの中で、主人公は妻との過去をさまざま回想する。
 物語の軸は2つある。ひとつは、その1日の仕事の流れで、そこで敦と先輩女性の会話が繰り広げられる。仕事の描写が非常にリアリティがあるゆえに物語への引き込みが強い。もうひとつは、仕事の合間に回想される、離婚に至るまでの経緯やそれに対する思いだ。この2つの軸があることによって、夫婦関係の破綻に至るまでの心理描写が平坦ではなく立体的なものになった。うまい構成だ。 続きを読む

芥川賞を読む 第39回 『沖で待つ』絲山秋子

文筆家
水上修一

同期入社の男女の友情を爽やかに切なく描いた名作

絲山秋子(いとやま・あきこ)著/第134回芥川賞受賞作(2005年下半期)

純文学に対する見方が変わる

「芥川賞作品にもこんな作風のものがあるのだ」と妙に感心した。純文学と呼ばれるもの、なかんずく芥川賞作品に見られがちなかなり特殊な世界の話ではないし、難しいテーマでもない。多くの人が経験しているであろうことを平易な文章でさらりと描いて見せて、読後に爽やかな感覚を残していく。「ああ、おもしろかった」と思いながら本を閉じると、心の奥がほんの少し温かい。
 選考委員の河野多恵子は、

純文学まがいの小説くらい、くだらない読物はない。そういうものを読んで純文学はつまらないと思い込んできた人たちに、この作品で本物の純文学のおいしさを知ってもらいたくもなった

と絶賛している。
 第134回芥川賞受賞作、絲山秋子の「沖で待つ」が描いているものは、仕事を通して生まれた異性の友情である。なかんずく同期という特殊な人間関係の持つ絆の強さが鮮やかに描かれている。 続きを読む

芥川賞を読む 第38回 『土の中の子供』中村文則

文筆家
水上修一

児童虐待を受け続けた人間が見つけ出す光とは

中村文則(なかむら・ふみのり)著/第133回芥川賞受賞作(2005年上半期)

命に対する肯定感

 2度の芥川賞候補(128回「銃」、129回「遮光」)を経て、第133回芥川賞を受賞した当時27歳の中村文則。「土の中の子供」は、約234枚の作品で『新潮』に掲載されたもの。
 主題は暴力。親に捨てられ、孤児として引き取った養父母から、虐待の限りを尽くされ育ってきた主人公の「私」。成人したあとも、あえて自ら暴力に晒されるような生活を送る。生と死の境の中で、なぜ自分は被暴力の中へと突き進んでいくのか、自問自答しながら物語は進んでいく。
 現在の物語の中に、幼少期の壮絶な体験を入れ込んでいくのだが、初めは表層的なエピソードから始まって、次第に核心的なエピソードが明かされていき、主人公が抱えてきたものの深刻さが姿を現してくる。
 精神科医からは、過去のトラウマによって破滅願望があるのだという診断結果を下されていたが、それに違和感を持っていた主人公は、自分が求めているものは何なのかを執拗に自問自答しながら物語は進んでいく。重く息苦しい物語の中で最後に仄かな明るさが遠くに見えるのだが、それは、人間はどんな状況にあっても困難を克服しようとする意思があるということを暗示するものだった。どん底にあっても、最後に得ることのできた命に対する肯定感には、読み終わった後、少し胸が震えた。 続きを読む

芥川賞を読む 第37回 『グランドフィナーレ』阿部和重

文筆家
水上修一

冷静な文体で小児性愛を描く不気味さ

阿部和重(あべ・かずしげ)著/第132回芥川賞受賞作(2004年下半期)

肩透かしのような感覚

 阿部和重は、平成16年に芥川賞を受賞するまで、群像新人文学賞、野間文芸新人賞、伊藤整文学賞、毎日出版文学賞を受賞しており、芥川賞候補にも三回あがっている。芥川賞受賞は、平成6年に初めて群像新人文学賞を受賞してから10年後になるので、満を持しての受賞ということだろう。
「グランドフィナーレ」の主人公の「わたし」は、小児性愛者の男性。自分の娘を含む幼女たちの膨大な量のいかがわしい写真が妻に発覚したことから、家庭は崩壊。法的に娘に面接することもできなくなった葛藤を丹念に描いている舞台は東京、そして人生から脱落して新しい道を歩み始めるきっかけを模索する舞台が東北の田舎町だ。田舎町を舞台とする後半の展開は、再生の兆しも見えるのだが、「わたし」の前に現れた美しい2人の少女との出会いから別の展開が見えてくる。 続きを読む