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芥川賞を読む 第64回 『影裏』沼田真佑

文筆家
水上修一

崩壊の予感漂う、寄る辺のない孤独

沼田真佑(ぬまた・しんすけ)著/第157回芥川賞受賞作(2017年上半期)

唯一心を許した男の失踪

 受賞作「影裏」(えいり)の舞台は、岩手県。主人公の「わたし」が唯一心を許していたのは、日浅(ひあさ)という男。事あるごとに酒を酌み交わし、豊かな水流が美しい川辺で釣りに興じる2人。だが、些細な出来事をきっかけに疎遠になり、やがて日浅は失踪。その行方を追ううちに、「わたし」は日浅の〝もうひとつの顔〟を目の当たりにし、その光と影に向き合う。岩手の豊かな水と緑の中で描かれる世界は、薄暗いひんやりとした手触りが美しく、不気味でもある。
 柱となるのは、「わたし」と日浅の関わりなのだが、途中で「わたし」が過去に付き合ったゲイの恋人や、東日本大震災の話が出てくる。ただ、いずれも作品の中にひっそりと紛れ込ませるような描き方なので、それが決して作品の主題ではないことは分かる。それでも、それぞれの素材が、「影裏」というタイトルからイメージされる、人間の影の部分や裏の顔というものを浮き上がらせるのに効果的な役割を果たしている。それは、薄暗くひんやりとした情景描写と同じように、孤独で、不安げだ。
 普通、芥川賞の選評を丹念に読むと、何が評価され何が不評だったか、ある程度の輪郭が見えてくるのだが、「影裏」に対する選評にははっきりした対立軸が見えない。各選考委員がそれぞれの視点で高評価し、あるいは低評価をしている。それだけ複雑で多面的な作品と言えるのかもしれない。 続きを読む

芥川賞を読む 第63回 『しんせかい』山下澄人

文筆家
水上修一

ありきたりの青春小説らしからぬ青春小説

山下澄人(やました・すみと)著/第156回芥川賞受賞作(2016年下半期)

舞台は、実在した北海道の演劇塾

 山下澄人の作品が初めて芥川賞候補になったのは、2012年。その後、立て続けに候補となり、2016年、4回目の候補作「しんせかい」で芥川賞を受賞。当時50歳。その20年前の1996年には「劇団FICTION」を立ち上げ、今に至るまで主宰しているので、小説よりも演劇活動の方が長い。
「しんせかい」は、有名な脚本家が北海道に設立した演劇塾が舞台だ。語り部は、作者と同名の「スミト」なので、私小説と言っていいだろう。作者のプロフィールを見ると、確かに2年間、その演劇塾に在籍している。
 物語は、俳優と脚本家を夢見る若者たちが、何もない北海道の大地の中で、共同生活をするための建物を建て、生活費を稼ぐために農作業に従事し、その合間を縫うように演劇の勉強をする。そこでの生活は、周辺の地元民からは「収容所」と呼ばれるほどの過酷なものだった。
 もちろん小説であるから実体験と創造が入り混じっていることは当然だとしても、実在した演劇塾に対する興味は読者としてかき立てられる。ところが、物語としての本作品は、極めて淡白なのだ。 続きを読む

芥川賞を読む 第62回 『コンビニ人間』村田紗耶香

文筆家
水上修一

異質なものの滑稽さと、異物排除の恐ろしさ

村田紗耶香(むらた・さやか)著/第155回芥川賞受賞作(2016年上半期)

周囲に擬態するように生きる主人公

 第155回「芥川賞」の受賞後、日本のみならず、世界40カ国語に翻訳された「コンビニ人間」。アメリカの雑誌『The New Yorker』が毎年主催している「THE BEST BOOKS 2018」にも選ばれるなど、世界各国で読まれた話題作だ。

――主人公の「私」は、同じコンビニで10年以上アルバイトとして働き続けている30代の女性。正社員になったことは一度もなく、男性と付き合った経験もない。そんな彼女は、幼少期に世間の〝普通〟と自分が違うことに気づき始めた。例えば、普通の人が悲しいと感じる出来事に対しても無機質な感情しか持てず、言葉の裏にある感情がくみ取れずにちぐはぐなコミュニケーションになる――等々。
 周りとは異質な自分を自覚しながらも、排除されないように、懸命に〝普通〟を演じながら生きてきた。
 そんな「私」が自分の地のままでいられる場がコンビニという職場だった。マニュアル化された手順に沿って仕事をして、マニュアル通りに客に対応すれば、優秀なアルバイターとして同僚からも信頼され、立派な社会人のようにそこに存在することができる。まさにコンビニこそが普通の人として存在できる場所だったのだ。 続きを読む

芥川賞を読む 第61回 『死んでいない者』滝口悠生

文筆家
水上修一

葬儀場の人々の描写から、生の滑稽さや愛しさが滲み出る

滝口悠生(たきぐち・ゆうしょう)著/第154回芥川賞受賞作(2015年下半期)

各家庭に存在するさまざまな事情

 滝口悠生の「死んでいない者」の舞台は、葬儀場だ。通夜会場、それに隣接する宴会場や控室、そして葬儀場近くの故人の実家とその周辺を舞台とし、多くの親族が登場する。
 亡くなった老人の葬儀のために集まった親族の数は、5人の子どもとその家族、孫ひ孫まで入れると、20数人にのぼる。これだけ多くの親族が集まれば、当然、誰と誰がどのようなつながりなのか分からなくなる。しかも、物語は、特定の2、3人だけに焦点を当てるのではなくひ孫まで描いているので、スムーズに読み進めるために筆者は図を書いたほどだった。
 それぞれの家庭の事情を絡めながら多くの登場人物を描くことで浮かび上がってくるのは、それぞれに懸命に生きているありのままの人の姿だ。周囲に迷惑ばかりかけて行方不明となっている男、中学時代から不登校となり、今は故人の実家の離れで無職のままひっそりと生きている若者、半ばアルコール中毒の小学生等々、それぞれの事情を抱えた血縁者たちが、一人の老人の死をきっかけに一堂に会いして、酒を飲み、話をする。日常ではありえない不思議な「場」からは、生きることの滑稽さや愛しさが滲み出てくるのである。 続きを読む

芥川賞を読む 第60回 『異類婚姻譚』本谷有希子

文筆家
水上修一

アイデンティティが希薄になる不気味さ

本谷有希子(もとや・ゆきこ)著/第154回芥川賞受賞作(2015年下半期)

象徴的な「蛇ボール」

 本谷有希子は、もともと舞台女優で、2000年には「劇団、本谷有希子」を設立し、自ら劇作・演出を手がけていた。その後、2006年には鶴屋南北戯曲賞を、2009年には岸田國士戯曲賞を受賞。さらに、2011年には野間文芸新人賞を、2013年には大江健三郎賞と三島由紀夫賞を受賞し、2015年に「異類婚姻譚」(いるいこんいんたん)で芥川賞を受賞した実力派である。
 異類婚姻譚は、言うまでもなく、人間と人間以外の存在、例えば、動物、神、妖怪、幽霊などとの結婚や恋愛を題材とした物語のことを指す。日本に限らず世界各地の民話や伝説、神話、文学作品に登場するわけだが、誰もが知っている日本の作品としては、鶴が人間の女性に姿を変えて男と結婚する「鶴の恩返し」や、男が亀を助けたことで竜宮城の乙姫(異界の存在)と過ごす「浦島太郎」などが有名だ。
 異類婚姻譚という説話類型名を作品名にしたことにより、読む前からこの作品がそうした物語であることを明言しているわけで、そのことによって、どこか奇妙な非現実的なストーリーを読み手がすんなりと受け入れる土壌を事前に作っている。 続きを読む