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芥川賞を読む 第31回『パーク・ライフ』吉田修一

文筆家
水上修一

「現代」という時代の、所在のない希薄性を描く

吉田修一(よしだ・しゅういち)著/第127回芥川賞受賞作(2002年上半期)

何も起きない淡い色彩の物語

 第127回芥川賞は、当時33歳だった吉田修一の「パーク・ライフ」が受賞。『文學会』に掲載された122枚の作品だ。同氏の作品はそれまで4回芥川賞候補となっている。
 物語は淡々と進む。舞台は東京の日比谷公園。主人公が暮らす部屋も勤務先もその周辺で、仕事の空き時間などにぼんやりとした時間をそこで過ごす。そこで一人の女性と知り合うのだが、大きな出来事は何も起きない。色に例えるならば、透明に近い淡い色彩の物語だ。何か特別なことを強く訴えようとする気配もないわけだが、それが逆に都会で暮らす若い人たちの感覚をうまく描いている。
 例えば、住む場所。主人公が生活する場所は、知り合い夫婦のマンションで、2人が不在期間、ペットの猿の面倒を見るという名目でその部屋で寝起きしている。そこは決して自分の世界ではない。例えば、人物。公園で知り合った女性との間には性的なものは皆無だし、他の登場人物を見ても手製の小さなバルーンを空にあげて公園の全体像を知ろうとする老人程度しか出てこない。そこにモチーフとして度々挟み込まれるのが、「死んでからも生き続ける臓器」を謳った臓器移植の広告や人体解剖図などの他人事のような希薄な肉体感覚だ。 続きを読む

芥川賞を読む 第30回『猛スピードで母は』長嶋有

文筆家
水上修一

疾走するように生きるシングルマザーと息子との陰影が鮮やかな印象を残す

長嶋有(ながしま・ゆう)著/第126回芥川賞受賞作(2001年下半期)

母子の距離の見事さで人物を鮮やかに描く

 第126回芥川賞を受賞したのは、長嶋有の「猛スピードで母は」だ。『文学界』(平成13年11月号)に掲載された約99枚の作品。当時29歳。それ以前、パスカル短編文学新人賞の候補作、ストリートノベル大賞の佳作第2席となり、文学界新人賞を受賞した「サイドカーに犬」は、前回125回の芥川賞候補になっている。
「猛スピードで母は」は、母子家庭を描いている。夫と離婚し女手ひとつで一人息子を育ててきた母親は、生き抜くために男に対しても社会に対しても遠慮がない。なおかつ自分の欲求に対しては素直で我慢はしない。おしゃれもするし腹が立つと趣味の車でぶっ飛ばす。
 この作品の見事さは、人物の鮮やかさだ。無口で大人しい少年から見た母親を描いているのだが、普通、子ども目線で物語を描く場合、周りの人物や出来事を深い思索や認識で捉えて、表現することは難しい。しかし、この作品はそうした困難さを軽々と超えて実に印象深い母親と、その親子関係を描き出している。 続きを読む

芥川賞を読む 第29回『中陰の花』玄侑宗久

文筆家
水上修一

文学に昇華された、僧侶が描くこの世とあの世のはざまの世界

玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)著/第125回芥川賞受賞作(2001年上半期)

ほぼ満場一致での受賞

 第125回芥川賞は、選考委員の石原慎太郎が「今回は全体に候補作の水準が高く、選考委員の間にさしたる異論もなしに受賞作が決まった」と言うように、スムーズに決まったようだ。かなり珍しい。選考委員の河野多惠子が選考会の様子を選評の中でかなり詳しく記していて、それによると3回の投票を通して玄侑宗久の「中陰の花」と長嶋有の「サイドカーに犬」の2作に絞り込まれ、最終的には「中陰の花」が満票で受賞を決めたようだ。
「中陰の花」の受賞に対して異論がほとんど出なかったのは、安定した文章と欠陥の少ない構成と読み物として素直におもしろいということが挙げられるだろう。 続きを読む

芥川賞を読む 第28回『熊の敷石』堀江敏幸

文筆家
水上修一

エッセイ風な淡々とした文章から重くて怪しいテーマが漂う

堀江敏幸(ほりえ・としゆき)著/第124回芥川賞受賞作(2000年下半期))

力みのない静かな文体

 W受賞となった第124回芥川賞のもう一つの受賞作は、堀江敏幸の「熊の敷石」だった。『群像』に掲載された約117枚の作品。
 かつてフランスに留学し今は日本でフランス文学関係の仕事をしている主人公の「私」が、フランスを再訪しユダヤ系友人と久しぶりに連絡を取り、ノルマンディー地方の小さな村で再会する話だ。そこでは、何か特別な事件や物語展開があるわけではない。淡々と静かな筆致で二人のやり取りなどが描かれている。
 その文章は、隙がなく、力みもなく、静けさを漂わせながら知性を匂わせる。だが、物語展開があまりにも少ないので引き込み力がなく、長いエッセイを読んでいるような感覚になる。小説の醍醐味が物語性だとすれば、あまりにも淡々として熱量がなさすぎる。
 ラストシーンが近づくにつれて、それまで積み上げてきた伏線などがどのように劇的に結実していくのだろうかと期待をして読み進むのだが、最後まで淡白と進み静かに終わり、食いたりなさが残ってしまった。もう一度読み返せば、表には浮かび上がってこなかった重くて大きな何かが感じ取れる気配を感じたが、再読する気力は湧いてこなかった。 続きを読む

芥川賞を読む 第27回『聖水』青来有一

文筆家
水上修一

死を前にしたときに信仰は何ができるか

青来有一(せいらい・ゆういち)著/第124回芥川賞受賞作(2000年下半期)

裏切り者の隠れキリシタンの末裔

 第124回芥川賞はダブル受賞となった。候補作はいずれもレベルが高かったようで、珍しく選考委員の多くが賛辞を送っている。三浦哲郎は、「今回の候補作は水準が高く、粒ぞろいで、順位をつけるのが難しかった」と述べ、宮本輝は、「候補作六篇、それぞれに作者の持ち味が出ていて、今回は豊作だという印象を抱いて選考会に出席した」と述べている。
 青来有一の「聖水」は、『文學界』(2000年12月号)に掲載された約190枚の作品。青来は、第113回の芥川賞から4回も候補に挙がっており、5回目の候補で受賞を勝ち取った。長崎県生まれの長崎県育ち。長崎大学卒業後、長崎市職員として勤める傍ら作品を書き続けてきた。被爆2世である青来の作品の多くのテーマは、被爆や隠れキリシタンなど長崎という固有の土地に根ざした作品が多い。「聖水」もまた隠れキリシタンの末裔の人々を題材としたものだ。 続きを読む