3歳だった女児が父の愛人について語る不気味
藤野可織(ふじの・かおり)著/第149回芥川賞受賞作(2013年上半期)
珍しい二人称の小説
藤野可織の「爪と目」は、冒頭の出だしが印象的で、本作の大きな特徴を示唆している。
はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った。あなたは驚いて「はあ」と返した。
ここで読者は少し混乱する。「語り手」が誰で、「あなた」は誰を指すのか、悩むのだ。筆者も最初は「語り手」が父と関係を持ったのかと思ったのだが、そうすると父が「きみとは結婚できない」と言った「きみ」は「語り手」になるはずなのだが、その後の文章を読むとどうも違う。それがはっきりするのが、少し後に出てくる「私は三歳の女の子だった」という一文である。つまり「語り手」は、当時3歳だった女の子なのである。その子が成長後、自分の人生を俯瞰するように物語ってゆくのである。そして、「あなた」は、父と不倫関係にあった女性を指すのだ。つまり、この作品は、語り手である当時3歳だった「わたし」が、父の愛人を「あなた」と呼ぶ2人称の小説なのである。
物語は、不気味なサスペンスのような雰囲気をまとっている。
――「わたし」が3歳のとき、実の母が自宅のベランダで原因不明の死を遂げた。そのショックで情緒不安定になった「わたし」のために、父は、以前から不倫関係にあった「あなた」を母親代わりにするため3人で同居を始めた。「あなた」は、一見優しげな女性に見えるのだが、それは愛情に基づくものではなく他者への関心の薄さから生まれる表面的なものだった…。
閉鎖的空間での息が詰まるような人間関係の中で、幼かった「わたし」は「あなた」をどのように見ていたのか、語っていくのである。もちろん3歳の幼子が事実関係を掌握し心理を分析するなどということはできないわけで、語り部の「わたし」は成人してからの「わたし」であることは想像できるのだが、まるで3歳の女の子が語っているかのように感じさせるところにこの作品の不気味さがある。
この作品を高く評価した小川洋子は、選評でこう述べる。
『爪と目』が恐ろしいのは、3歳の女の子が〝あなた〟について語っているという錯覚を、読み手に植えつける点である。しかも、語り口が、報告書のように無表情なのだ。弱者であるはずの〝わたし〟は、少しずつ〝あなた〟を上回る不気味さで彼女を支配し始める。(中略)広い世界へ拡散するのでもなく、情緒を掘り下げていくのでもない方向にさえ、物語が存在するのを証明してみせた小説である。
奥泉光の評価も高い。
主人公を『あなた』の2人称に設定することで、その後の母娘の長い時間にわたる関係の濃密さを予感させ、小説世界に奥行きを与えることに成功している。
深読みを求める作品の多さ
ネタバレになるので書けないが、強烈なのは最後の一文である。「わたし」が長年抱いてきた「あなた」への怨みや不信感をちょっとした手法でやり返したあとに、「あなた」について述べた締めの言葉は、恐ろしい。
島田雅彦の選評。
これは父の愛人を介して描いた自画像でもあったのだ。これは文句なく、藤野可織の最高傑作である。
一方、宮本輝の評価は高くなかった。
過度な深読みなしではただの文章の垂れ流しでしかないという作品が芥川賞の候補作となるようになって久しい。新しい書き手のなかには、読み手に深読みを強要させる小説にこそ文学性の濃さがあると錯覚している人が、ひとむかし前よりも増えてきたと思う。今回もそのての小説が多かった。(中略)私は題にもなっている『爪と目』を使っての最後の場面が、単なるホラー趣味以外の何物でもない気がして首をかしげざるをえなかった。爪と目が、この小説の奥に置こうとしたものの暗喩になりきっていなくて、強くは推せなかった。
読み手に想像させる余地を残すのは、文芸の大切な技術のひとつだ。小説、特に純文学においてもいかに「書かないか」ということが重要であることはもちろんなのだが、あまりにも読み手に「深読み」を求めるこうした傾向性が「芥川賞作品は分かりづらくて、おもしろくない」という評判の原因の一つとなっていることは、確かに理解できる。
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