芥川賞を読む 第6回 『背負い水』荻野アンナ

文筆家
水上修一

嫌みに感じるほどの「才気」は、否定しようがない

荻野アンナ著/第105回芥川賞受賞作(1991年上半期)

選考委員の酷評

 第105回の芥川賞は、前回取り上げた辺見庸の『自動起床装置』と萩野アンナの『背負い水』がダブル受賞となった。『文学界』(1991年6月号)に掲載された126枚の作品。
 さて困った。ちっともいいと思えないのだ。自らの精神の居場所を探し求めながら、男関係のなかで揺れ動く独身女性の心情を描いているのだが、読後、「だから、どうした?」と、ため息をついてしまったのだ。
 確かに、才気あふれる作家であることは、読み始めればすぐ分かる。けれども、例えば、そばに近づいて見ると確かにキラキラと部分的には輝いているのだが、離れて全体を見ようとすると、いったいどのような形状で何を表現しようとしているのかがつかめず、戸惑ってしまうのだ。
 自らの読解力のなさを恥じながら、恐る恐る選考委員の選評を読んでみると、これまた不思議なのだが、酷評する選考委員が驚くほど多かった。
 丸谷才一は、

わたしには解しかねる作品であった。登場人物間の関係が、表面的なことはよくわかるけれども、ちょっと深い層になると見当もつかない。どうやら、ユーモアのつもりのものが魂を描くことの邪魔をし、新しさを狙ったものが真実に迫ることを妨げてゐるらしい。

と手厳しい。
 三浦哲郎は、

おめでとうといいたいが、私は、この人はアウトサイダーとして自分の才能を最大限に発揮できる人だと思っているから、ちとお気の毒という気がしないでもない。芥川賞に囚われぬことを祈ります。

と嫌みのような言葉を残している。
 古井由吉は、

口の達者な作品である。作品がつらいところへさしかかると、機智がはじける。むしろ頓知頓才というべきか。(中略)しかし、読んでいるとつらくなる、とそんな感想をもらした選者がいた。いたましいようで、というふくみである。泣きの変形だと私も感じた。

と辛辣だ。
 主人公の「わたし」は、ともかく饒舌だ。機智をまき散らすかのように言葉が連射される。しかも、カタカナ表記の当時の流行り言葉を、時代を切り取るものであるかのようにちょこちょこぶち込んでくるので、余計に鼻につく。
 それはたとえば、農民詩人が貧しさと労働の辛さのなかから紡ぎ出した飾り気のない武骨な言葉たちが、読者の胸を打つのとは真逆の性質のもののように思える。そういう意味では、私は、丸谷才一の前述の選評にもっとも共感した。

饒舌の底に隠れている侘しさ

 萩野アンナの父はアメリカ人で母は画家。横浜市育ちで、フェリス女学院高校、慶応大学文学部を卒業。芥川賞を受賞したのは、慶応大学で助手をしていた34歳の時。
 駄洒落好きで、芥川賞受賞報告の電話にも「あ、しょう」と応えたという(ホントかな?)。また、落語好きが高じて落語家に弟子入りし、現在二つ目、「金原亭駒ん奈」を名乗るほどだから、饒舌さというのは、狙ったものというよりも、作者の地の部分から滲み出てきたものかもしれない。
 ではなぜ、酷評する選考委員が多い中、芥川賞に選ばれたのだろう。それは、否定しようのない、きらめくような「才気」が伝わるからだ。知性がえぐり出す細やかな心理描写、好き嫌いは別にして溢れるウイット、饒舌な語り口など、只者ではないと思わせるものがある。
 吉行淳之介は、

作者は多彩な才能をもっているが、この作品での才気煥発には余分なところが多く

と、注文をつけながらもその才は認めている。
 黒井千次は、

時に空転する嫌いがあるにしても、この才気と筆力には注目すべきものがある

と評す。
『背負い水』は、作者にとっては4度目の芥川賞候補となった作品だが、第1回目の候補時から一貫して強く推してきたのが、河野多惠子だった。その河野は、

第1回目の候補の時から多くの選者が才能は認めておりながら、毎回見送りとなった。何よりも才気の空回りが目立たからだったが、受賞作ではそういう弱点が多分に消え、作家としての成長を示している

と評価している。
 私は、前述したように、作品の全体像が分からずに戸惑ったのだが、吉行が漏らした次の一言で靄が晴れるような気がした。それは、「侘しさ」というキーワードだ。

主人公の華やかさがしだいに侘しさに移行し、この主人公への作者の投影がその侘しさを増幅させ、とくに末尾が辛い。こういう角度から読んでみると、かえって味わいが出てきた。

 饒舌で機智にあふれ自由に生きているように見える主人公の、結局は精神の居場所を見つけることのできない侘しさ。その侘しさが残り香のように最後に立ち上がってくるのだ。ただ、もう一度、読み返す気にはなれない。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。