芥川賞を読む 第4回 『妊娠カレンダー』小川洋子著

文筆家
水上修一

女性の身体感覚を、的確な文体で描き切る

第104回芥川賞受賞作(1990年下半期)

現代社会の〝生の希薄さ〟

 第104回芥川賞の受賞作『妊娠カレンダー』は、タイトルから想像されるように、妊娠を題材とした観察日記形式の小説だ。だが、そこで描かれている妊娠には、祝祭的要素は何もない。新しい生命が誕生する感動も喜びもない。代わりに、妊娠という原始的で奇妙な生理現象に対する不安と恐れ、そして嫌悪のようなものさえ感じる。
       
 早くに両親を亡くし二人で生きてきた姉と、主人公である妹の〝わたし〟。姉は歯科技師の夫と結婚し妊娠。ひとつ屋根の下で三人が暮らしていた。神経症的な精神疾患を抱えている姉は、ひどいつわりで何も食べられなくなり、家の中で生じるあらゆる臭いを拒絶する。その姉に翻弄されながらも従順に姉の要求に従う主人公。つわりが終わって猛烈な食欲を見せ始めた姉に対し主人公は、グレープフルーツでジャムを作り毎日大量に食べさせる。そのグレープフルーツには、染色体に悪影響を及ぼすリスクのある化学薬品が含まれているのを、主人公は知っていた――。
       
 もちろん、添加物は多くの食材に含まれているわけで、それが直接胎児に悪影響を及ぼすことは考えにくいが、そういうリスクがあることを知りつつ姉に食べさせ続ける主人公のささやかな悪意こそが、不気味なのだ。
 妊娠未経験の〝わたし〟は、姉の妊娠を喜ぶのでもなく、かといって憎悪するわけでもない。ただ、「染色体」としてしか感じ取れない。その客観的な視線がひんやりとしたものを伝えてくる。
 一方、姉は、自分の体内に生じた異物をより一層違和感として感じている。(自分の子どもを)「選ぶ自由なんてないのよ」と言い、「怖いのは、自分の赤ん坊に会わなきゃならないってこと」とサラリと言う。姉の気質を神経症的なものに設定したことが、その特異的な感覚をより際立たせている。
 こうした妊娠に対する女性の感覚が、もともと備わっているものかどうかは分からない。ただ、出生前診断をはじめとして生命を遺伝子レベルで見る傾向が強まった現代においてこそ発現しやすい感覚なのかもしれない。
 いずれにしても、作品のなかに流れている陰りとひんやりとした感覚は、現代社会に生きる私たちが感じる〝生の希薄さ〟とも共通しているように思える。

繊細な感覚を描く文章力

 作者の小川洋子さんは、当時28歳。昭和63年に海燕新人文学賞をとって作家デビュー。以降、毎回、芥川賞候補となり、4回目の候補で受賞。原稿枚数は87枚。その後もさまざまな文学賞をとり、活躍を続けている。
 彼女は女性の身体感覚を描くことが多いが、そこで最大の武器となるのが、その文章力だ。鋭敏かつ繊細な感覚的なものを描くときに、文章力が弱いとどうにもならない。何が何だか分からなくなる。だが、彼女の文章は、静かで、的確で、ピタリと伝わる。
 選考委員の河野多惠子さんは、「今度も文章がよかった」と言い、丸谷才一さんは、「文章も感覚がよくて、ものごとを一つ一つ的確鮮明に伝えてくれる」と評す。そして、三浦哲郎さんは次のように絶賛している。

小川洋子氏の文章には以前から心惹かれていた。優れた作品は必ずよい文体を持っている。逆にいえば、よい文体が往々にして優れた作品を産む。小川氏の文体は、簡潔で正確な上に、乾いているというほどではないが至って湿り気のすくない、ひんやりとした感触が快(こころよ)い。

 また、独特の世界観を描くための設定も抜かりがない。姉を長年診てきた精神科医は、存在感の薄い弱さを漂わせている。姉の夫は壊れそうな姉をどうすることもできずにただおろおろと優しさをまき散らす。姉が出産するために選んだ産婦人科病院は、古びた薬瓶や味けない寝台がいまだに使われている、時代に取り残されたような病院だ。そこは幼少期の姉と主人公の遊び場の記憶の場所でもある。
 あらゆるものが、不安と恐れ、そして生の希薄さを引き立てている。
 こういう作品は好きか嫌いかと問われれば、私は首をかしげながら「嫌いかも」と言うだろうけれども、描こうとしたものを徹底して描き切るその力量には溜め息をつくしかない。そして、それこそが芥川賞受賞作なのだと思う。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。