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書評『言論統制 増補版』――日本言論界の負の歴史を見つめる名著

ライター
小林芳雄

鈴木庫三とはいかなる人物か

 第2次世界大戦下の日本で、言論統制を行った悪名高い情報将校・鈴木庫三(くらぞう)。本書は厖大な資料を渉猟し彼の実像に迫ることによって、当時の言論界の内実を明らかにするものである。初版は2004年に発行された。それから20年が経過し、デジタルアーカイブの発達などもあり、多くの未発見資料が発見された。そうした成果を盛り込み増補・加筆されたものが『情報統制 増補版』である。

日記からも猛烈な勉強の様子がうかがわれるが、読書時間の多くが演習や講義で利用された洋書テキストに費やされている。(中略)目的に対する精力の集中投入という軍事的思考なのであろうが、そこに「知識人」鈴木庫三の限界を指摘することはできる。(本書184ページ)

 鈴木庫三は1894年、茨城県の小作農の子供として生まれた。家は貧しく、幼い頃から両親の農業を手伝いながら学ぶことを余儀なくされる。軍人になってからも努力を重ね、日本大学の文学部を首席で卒業し、同大学院へと進学する。刻苦勉励(こっくべんれい)がやがて実を結び、東京帝国大学(現在の東京大学)文学部に陸軍派遣学生として送り込まれることとなった。やがて教育将校として頭角を現し、1938年から1942年まで情報将校として辣腕を振るった。「国防国家」という言葉が一般的に定着したのは彼の功績ともいわれる。戦後は熊本に隠棲し農業に従事し、1964年に死去している。 続きを読む

書評『グローバル・ヒバクシャ』――核抑止力の内実を鋭く問う

ライター
小林芳雄

惑星的な視座からヒバクシャを可視化

 本書「グローバル・ヒバクシャ」では、これまでほとんど顧みられることのなかった、世界各地に存在する被曝者の歴史と実態を追求し、核抑止力の前提を鋭く問い直すことを試みている。著者はアメリカ史、科学史、核の文化史を専門とする歴史学者であり、2005年から2025年まで、19年にわたって広島の地で教育・研究に従事してきた。本書はその活動から生まれたものである。

人間の身体は人類という単一の種に属するものであり、その歴史は、地球を政治の舞台とする、種としての歴史である。グローバルな歴史として捉えたとき、放射線の影響の全貌が明らかになる――放射線の害はもはや一過性のものではなく、体系的なものとなる。我々は各国の責任を問い続け、その行動を詳細に把握しなければならない。放射性降下物の粒子が世界中に行き渡ったのと同様に、私たちも視線を世界中に行き渡らせる必要がある。(本書32ページ)

 1945年、第二次世界大戦末期、広島、次いで長崎で、人類史最初の核兵器が使用された。多くの犠牲者を出した。しかし、世界の核保有国はそれ以降も核の開発を続け、冷戦終結までに2000発の核兵器を爆発させた。こうした核実験だけでなく、原料となるウラニウムの採掘や原発事故を含めると、放射能による被害を受けた人の数は世界各地で数100万人にのぼるという。 続きを読む

書評『ウインストン・チャーチル』――不屈の政治家の劇的な生涯

ライター
小林芳雄

逆境を追い風に変える

 本書は生誕150周年を迎えたイギリスの政治家ウインストン・チャーチルの評伝である。
 チャーチルといえば、第二次世界大戦でヒトラー率いるナチス・ドイツを打ち負かし、連合国を勝利へと導いたイギリスの宰相として名高い。さらにその才能を多方面で発揮した人物で、歴史的な演説を幾度も行い、ノーベル文学賞を獲得した文筆家でもある。40歳から趣味で始めた絵画は芸術家からも賞賛される数多くの作品を生み出した。またレンガ職人という顔という意外な一面も持つ。
 しかし、その華やかな業績の裏には多くの苦闘があった。チャーチルほど人生の毀誉褒貶を味わった人もまれであろう。 続きを読む

書評『〈決定版〉ミシュレ入門』 ――偉大なる歴史家の卓越した史観に学ぶ

ライター
小林芳雄

宗教の歴史的功罪を見つめる

 フランスの歴史家・思想家ジュール・ミシュレ(1798~1874)。世界屈指の研究機関コレージュ・ド・フランスの教授でもあった彼は、数多くの書物を著し、人間の生活文化を視野に収めた総合歴史学を目指す〝アナール学派の源流〟ともいわれる。さらに母国では歴史学の分野を超えた大作家とされ、ユゴーやバルザックと並び称されることもある。
 本書は、ミシュレの入門書であるが、生涯の事績を列挙するようなことはせず、大著『人類の聖書』にミシュレが書き残した特徴的な一節を導きの糸に、彼の歴史観の底に流れる問題意識を明らかにする試みである。

インドから(一七)八九年[=大革命]まで光の奔流が流れ下ってくる。「法」と「理性」の大河である。遥かなる古代は君なのだ。君の種族は八九年となる。そして中世はよそ者となる。(『人類の聖書』大野一道訳/藤原書店、本書12ページ)

 中世から近代への歩みを踏み出した時代を「ルネサンス時代」と名付けたのはミシュレである。そしてルネサンス時代に始まる近代化を実現したのがフランス革命であった。 続きを読む

書評『信頼と不信の哲学入門』――当たり前の日常に潜む哲学的問題

ライター
小林芳雄

個人と社会に対する大きな影響

 信頼がもつ大きな力とその複雑さを改めて知ることができる一書である。
 食事をする。通勤電車に乗る。買い物をする。わたしたちの普通の生活を支えている基盤が信頼である。信頼なくしては何もできない。しかし「信頼とは何か」を説明することはじつに難しい。わたしたちは信頼をあたかも空気のように自明のものと考えているので、そこに潜む問題にはなかなか気づくことができない。
 著者のキャサリン・ホーリー(1971~2021年)は信頼の哲学の分野で、研究を大きく進展させたことで知られている。本書は一般の読者向けに書かれた信頼の哲学入門である。

 しかし多くの社会科学者は、「高信頼」あるいは「低信頼」の社会で生活することの影響が、個人と個人の関係を超えて、あらゆる人に影響を与えるとも考えている。「ソーシャル・キャピタル」は物理的資本(装備)や人的資本(スキル)と並び、社会の生産性を高めたり低めたりする資源に位置づけられている。(本書36ページ)

 近年の研究成果では、信頼は個人だけではなく、多くの人に強く影響するとされている。互いの信頼が高い集団では生産性が高まり、所属する多くの人々に経済的恩恵をもたらす。それに対して、集団内の不信が強いと説明責任などが過剰に求められ、本来は他のことに使えるはずだった時間と資源を浪費してしまうという。 続きを読む