コラム」カテゴリーアーカイブ

長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第6回 沖縄戦を生き延びる

ジャーナリスト
柳原滋雄

洞窟内の那覇警察署

 長嶺将真は1944年10月、首里出身の女性、喜瀬ヨネと入籍した。長嶺が37歳、ヨネは27歳だった。
 それからわずか数日後、那覇市内がほぼ壊滅することになる「10・10空襲」が発生した。日本軍はほとんどなすすべもなく、街は破壊され尽くした。
 初めての本格的な空襲を受けた住民は、当初は友軍である日本軍の演習と勘違いした人もいたようだったが、米軍機とわかると、かねて想定していた防空壕に避難した。沖縄には自然にできた壕がたくさんある。さらに独特の亀甲墓の中はそれなりの空間があって、逃げるにはちょうどよい場所だった。
 那覇警察署に勤務していた長嶺によれば、この空襲で那覇署員の殉職者は発生しなかった。それでも那覇の家屋のほとんどが灰と化し、住民には突然の北部への避難命令が出て、ごった返した。この中には長嶺の両親も含まれていたと考えられる。 続きを読む

特集⑨ 日蓮正宗僧侶たちの堕落――「第一次宗門事件」の伏線

ライター
青山樹人

出家たちの屈折した感情

 世界の指導者との対話を開始した池田会長。
 ところが、現実社会への展望もなければ責任感もなかった日蓮正宗の出家たちには、会長の世界に開かれた行動の真価など理解できなかった。
 創価学会は1953年に宗教法人の認証を受けた独自の法人格を持つ教団である。
 そのうえで日蓮仏法の流布をめざし、日蓮正宗の在家信徒の団体という立場で、総本山大石寺をはじめ宗門の外護に尽くしてきた。大石寺に建築史に特筆される施設をいくつも建立寄進し、国内外に300を超す末寺も寄進してきた。仏教史上、未曽有の在家による外護と供養である。
 宗門のなかでも戦後の疲弊した本山を知っている者は、学会の存在を頼もしくもありがたくも思った。しかしながら、寺檀制度の旧弊は宗内に色濃く染みついていた。在家への差別意識を抱き、当時から学会を蔑視していた出家は皆無でなかった。檀家制度そのものである法華講にも、急成長する創価学会への屈折した感情があった。 続きを読む

シリーズ:東日本大震災10年目~「防災・減災社会」構築への視点 第3回 つながる語り部たち(上)~東北から阪神、熊本、全国へ~

フリーライター
峠 淳次

語り部バス~未来の命を守りたい~

 ゆっくりと動き始めたバスに向かって、ホテルスタッフたちが口々に呼び掛ける。「いってらっしゃーい」「しっかり学んできてくださいねー」。つられるように乗客たちもバスの窓越しに手を振って応える。「はーい、いってきまーす」「うんと学んできますね」――。東日本大震災後、宮城県南三陸町の志津川湾を望む高台に立つ「南三陸ホテル観洋」の玄関口で、毎朝見られる光景である。
 バスに乗り合わせているのは、前日からのホテル宿泊者たち。これから1時間近くをかけて、骨組みだけとなった旧防災対策庁舎や被災直後の姿をほぼそのまま残す高野会館など、震災遺構と復旧復興工事の最前線現場を見て回る。案内するのは、自宅を津波で流されるなど自らも被災者となった同ホテルのスタッフと地域の住民たち。「語り部」として日替わりで乗車し、あの日の体験と教訓を語り伝える。 続きを読む

期待されない合流新党――国民は政治の安定を望む

ライター
松田 明

75%が「野党には期待しない」

 9月10日午後、立憲民主党と国民新党などによる「合流新党」の代表がおこなわれ、新代表が枝野幸男氏、党名が立憲民主党と決まった。
 どうにも新鮮味がない。国民から見れば、内輪もめで迷走に迷走を重ねてきた〝かつての民主党〟が、また帰ってきただけという顔ぶれだ。
 しかも代表選挙の方法も、党員やサポーターを加えず国会議員だけでおこなうという、自民党総裁選よりも閉鎖的な手法だった。
 また、「大きなかたまりを作る」と言われながら、玉城雄一郎氏ら合流を拒否する議員が14人に達し、旧国民民主党は「分党」となった。
 支持率が1%未満だった国民民主党。例のごとく選挙に自信のない議員たちが、解散を恐れて慌ただしく立憲民主党になだれ込んだというのが実態である。
 国民の期待感は予想以上に低い。 続きを読む

長嶺将真物語~沖縄空手の興亡~ 第5回 警察勤務時代(下)

ジャーナリスト
柳原滋雄

本部と船越の確執

 ここで沖縄の空手家から見た船越(富名腰)義珍という存在について見ておきたい。長嶺将真は警視庁での研修に派遣された1936年、本部朝基の「大道館」だけでなく、早くから東京で普及にあたっていた船越の道場も訪ねている。当時の「松濤館」は雑司ヶ谷ではなく、まだ本郷にあった時代だった。
 長嶺の人生にとって最初に唐手に接する機会となったのは小学生時代の船越との縁によるものだが、長嶺はその著作において、空手の師匠は新垣安吉、喜屋武朝徳、本部朝基の3人で、船越を師匠と位置づけたことは一度もない。

1937年ごろ、東京の船越宅で撮影されたとみられる貴重な写真。左から4人目が船越義珍、5人目が本部朝基

 船越は安里安恒や糸洲安恒の直弟子であり、首里手の使い手であったが、なぜ長嶺は尊敬しなかったのか。一つはすでに生じていた本部と船越の確執にも原因があったと思われる。 続きを読む