コラム」カテゴリーアーカイブ

書評『陰謀論入門』――陰謀論に対峙すべき方途を示す

ライター
小林芳雄

陰謀論とはそもそも何か

「アポロ11号の月面着陸は偽物である」「ウォール街を支配しているのは爬虫類人間である」など、陰謀論は部外者からすればバカバカしい内容だ。しかしヒトラーが唱えた「ユダヤ人はドイツ経済を支配しようとしている」という陰謀論は、荒唐無稽であるにも関わらず600万人の犠牲者を生み出すという惨禍を招いた。なぜ人は陰謀論を信じるのか。そもそも陰謀論とはなんだろうか。
 本書は、アメリカにおける陰謀論研究の第一人者である著者が、最新の研究成果や豊富な事例を踏まえてその全体像を明らかにする画期的な入門書である。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第7回 五略十広・発大心

 前回までで「序分(縁起)」の説明が終わり、今回から「正説分」、つまり『摩訶止観』の本論に入る。正説分は、標章、生起、分別、料簡、広説からなっている。広説は、いわば『摩訶止観』全体の構成を意味し、五略十広といわれる。「十広」とは、大意・釈名(しゃくみょう)・体相・摂法(しょうぼう)・偏円(へんえん)・方便・正観(しょうがん)・果報・起教(ききょう)・旨帰(しき)の十章を指す。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第149回 小説を書くことの分からなさ

作家
村上政彦

 人は、なぜ、小説を書くのだろうか。僕は、かつてある新聞社のカルチャー教室で小説の書き方を教えていたことがあった。受講生は、だいたい中高年が多い。男女の比率は同じぐらいだ。
 そのなかでも、印象に残っている人が何人かいて、その一人が80代もなかばの女性Aさんだ。子供のころから本を読むのが好きで、小学生のときには大人の読むような文学を手にしていて、母親からとがめられた。
 本当は、ずっと小説を書きたかったのだが、機会がなくて年老いてしまい、このままでは死ねない、とこの教室を訪れたという。

先生、私の書いた小説を棺桶に入れてくださいますか?

 この言葉は忘れられない。
 プロの小説家と言われる人でも、小説を書くのが楽しくてしようがない、という話は、あまり聞かない。逆に苦痛だ、辛い、という人のほうが多い。デビューする前は、どうしても書きたかった小説が、書かなければならない仕事になると、そうなる。
 でも、本当に筆をおいてしまう人は、ごく稀だ。嫌だ、嫌だ、と言いながら、一作書き終えると、次の小説に取りかかっている。ある小説家は、そういう性なのだ、と言っていた。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第148回 書こうとしない「書く」教室

作家
村上政彦

 なんとなく気になる小説家がいる。作品を読んでもいないし、会ったわけでもない。いしいしんじ――みなさん、知っていますか? 僕は、書店をパトロールしているときに、彼の本を見つけて(手には取らなかったけれど)、いつか読むことになるだろうと直感した。
 ある日、なんのきっかけだったか、アマゾンで数冊、いしいの小説を買った。読んでみると、なぜか懐かしい。むかし読んだ気のするような作品ばかりだった。それから僕は、いしいしんじの隠れファンになった(きょう初めて発表しました!)。
 新刊が出たことを新聞のインタビュー欄で知った。『書こうとしない「書く」教室』。さっそく買って読んでみた。出版社のオンライン講座として収録した話をもとにしているので、とても読みやすい。
 午前の部は、1時間目から3時間目まで。ここで語られるのは、いしいの来し方だ。会社員だったとき、処女作の出版が決まって、二足の草鞋を履いた、と喜んでいたら、急に胸が苦しくなって、見たら、おばあちゃんが乗っていて、2本の指を出している。
 二足の草鞋はだめなんだとおもって、その日、会社を辞めた。それから専業作家になって、読んでいるとき以外は、いつもノートになにか書いている。理由は、「かゆみ」。自分と世の中の境界が、かゆい。それをかきむしるのは、文字であり、言葉だ。 続きを読む

書評『バカロレアの哲学』――フランスの哲学教育とそれを支える理念に学ぶ

ライター
小林芳雄

フランスの高校生が受ける哲学教育とは

 バカロレア試験とは、フランスの高校生が卒業時に受ける試験である。この試験に合格した学生には高校卒業資格と同時に大学入学資格も授与される。その起源は古く、ナポレオンが皇帝であった1808年にまで遡る。それ以来、幾多の制度改革が行われ、今日まで続いている。
 この試験のなかで大きな比重を占めるのが、哲学の試験だ。生徒たちは高校の3年次、必修科目として、週4時間の哲学の授業を受け、その1年間の学習の成果をバカロレア試験で問われることになる。しかも1科目に対する試験時間が日本とは比較にならないほど長く、なんと、哲学だけで4時間の筆記試験が行われるという。驚くのはその形式だけではなく、試験問題の内容だ。本書の冒頭では過去に出題された問題が紹介されている。

労働はわれわれをより人間的にするのか?
技術はわれわれの自由を増大させるのか?
権力の行使は正義の尊重と両立可能なのか?(本書1ページ)

「こんな、難しい問題を高校生がどうやって解くのだろうか」と、首をかしげたくなる人も多いはずだ。さらには、フランスは文化水準が高い国だから、高校生でも哲学を学ぶのだろう、と考える人もいるのではないだろうか。
 著者は、フランスに10年滞在し、大学で哲学の博士を取得した。その経験をもとに、上記のような考え方は、間違いであると指摘する。確かに文化による相違があるとはいえ、フランスの高校生も日本の高校生とあまり変わることはないという。では、難しい試験問題になぜ答えることができるのかといえば、将棋やチェスにも定石があるように、哲学の試験問題の解答には決められた手順と解法がある。それを1年間かけて、徹底的に教えられるから問題を解くことができるのである。
 本書は、バカロレアの試験問題や採点の基準などの制度的な側面から、試験問題の解答方法までを分かりやすく解説している。上述したような、簡潔な一文で述べられる問題を解くことを通して、問題の選びかた、問題の分析の方法、さらには文章の構成の作り方から、小論文の執筆にいたるまでの過程が丁寧に論じられている。この箇所は、本書の大きな読みどころのひとつであるだけではなく、日本の大学生が論文を書く際に役立ち、社会人が行うプレゼンテーションや社員教育にも、十分に役に立つ内容であると思う。またこれから哲学を学び直したい人にも参考になる。

哲学を学び、「思考の型」を身につける

 実際にバカロレア哲学試験が試すのは、「思考の型」がマスターされているかどうかです。「思考の型」とは何でしょうか。それは、一文で表現される問題を決まった手続きによって分析し、解答を「導入・展開・結論」という三つの部分からなる構成に従って書くという、バカロレア哲学試験で要求される答案作成の方法です。フランスの高校生はこの「型」を一年かけて哲学の授業で学びます。バカロレア哲学試験は、その「型」が使いこなせるかどうかを評価する試験なのです。(本書8ページ)

 著者が強調するのは、フランスで高校生に行われている哲学教育の目的は哲学の専門家を養成するためではない。基本的な「思考の型」を身につけ活用する力を養う点にある。その利点は2つある。
 ひとつは、哲学教育によって批判的に物事を考える力が養われる点である。
 さらにもうひとつは、多様な意見を理解できる点にある。考え方の異なる人が独自な表現を用いて議論をすれば、お互いを理解することは極めて難しい。しかし、共通の論理的手続きと表現方法を用いて議論するなら、おのずから論点は明確になる。「思考の型」は多様な人同士の討議と理解を可能にするフォーマットとしての役割も果たしている。

「思考の型」を活用できる「市民」を育成する

 結果としてそれは多様な意見を理解し、時には同意し、時には反論するような健全な意見表明の場を生み出すことになるでしょう。そのような意見表明を行うための能力を持った人々を「市民」と呼ぶことができるでしょう。
 そうした討議の場は民主主義的な社会にとって不可欠です。問題はこのような「型」を身につけた人をどうやって増やすのか、ということです。その解決策として、フランスは哲学教育を行っているのです。(本書11ページ)

 フランスの哲学教育を支えている理念は、民主主義の担い手である「市民」の育成である。こうした準拠点があるからこそ、さまざまな問題を抱えながらも、哲学教育に多大な労力をかけているのだ。また制度的に生き詰まることがあったとしても、そうした当初の目的に立ち返り、改善をすることができる。
 先日、大学入学共通テストが実施され、ジェンダー問題や「親ガチャ」など時代を投影する問題が出題されるなど話題を呼んだ。さらに最近は詰め込み教育の悪弊あってか、「クイズ王」のような断片的な知識を持つ人がもてはやされる風潮がある。しかし本当に求められているのは、自ら考える力と体系知を身につけた人間だ。そうした日本社会の現状を変えるために必要なのは試験制度や出題内容ではなく、教育理念の見直しではないだろうか。
 また、フランスのように学ぶべき「思考の型」を持たない日本社会が、多様性に開かれた社会を築くことが果たして可能なのか。フランスの哲学教育から学ぶべき点はじつに多い。
 現在の日本の教育と社会の在り方を深く考えさせてくれる一書である。

『バカロレアの哲学――「思考の型」で自ら考え、書く』
(坂本尚志著/日本実業出版社/2022年2月1日刊)