投稿者「web-daisanbunmei」のアーカイブ

芥川賞を読む 第55回 『穴』小山田浩子

文筆家
水上修一

ありふれた日常の中にある異界

小山田浩子(おやまだ・ひろこ)著/第150回芥川賞受賞作(2013年下半期)

語らないことで想像をかきたてる

 実験的で技巧的な文章にやや食傷気味だった筆者にとって、小山田浩子の「穴」は、とても読みやすく、力を抜いて小説世界に浸ることができた。村上龍が「複雑な構造の作品ではなかったことにまず好感をもった。」と評した通りだ。

 ――非正規雇用の「私」は、郊外に引っ越すことになった。そこは、夫の実家に隣接する貸家で、家賃はゼロ。お金のためにあくせく働く時間は消え去り、日がな一日することがほとんどない専業主婦の生活が始まった。外を歩く人などほとんどいない強い日差しが降り注ぐ夏。車のない「私」は、コンビニに行くにも時間をかけて徒歩で移動するしかない。
 それまでとは全く異なる土地と環境の中で、奇妙な出来事がいくつも起きる。得体の知れない黒い獣の後を追ううちに、背丈ほどもある穴に落ちる。人気の少ない場所と不釣り合いなほどの大勢の子どもたちが河原で遊んでいる。義祖父は、豪雨にもかかわらずひたすら庭に水を撒き、饒舌な義母は小銭をくすねる。そして、その存在など聞いたこともない義兄が、隣接するプレハブ小屋で暮らしていた…。 続きを読む

書評『歴史と人物を語る(下)』――生命を千倍生きゆけ!

ライター
本房 歩

「下巻」は仏法者としての人物論

 創価学園・創価大学の創立者である池田大作氏は、歴史上の人物論について若き俊英たちに語る機会を幾度か持った。『歴史と人物を語る(上)』には、こうした教育機関での創立者としての講演が収められている。
 一方、創価学会の第3代会長を辞した後も、創価学会名誉会長あるいは創価学会インタナショナル会長として、さまざまな機会を通して会員たちにスピーチや随筆などを贈り続けた。

 そうした創価学会内での言論でも、池田氏は古今の世界の名著を紐解き、東西の偉人たちの生き方を通して、「真に崇高な生き方とは何か」「幸福な人生とは何か」を語ることが常であった。
 多くの場合、宗教指導者の〝説法〟は、その信仰世界の内部の世界観や価値観に閉じたものになりがちだ。池田氏は、むしろそのような独善的なものにならないように、とりわけ青少年世代の会員が普遍的な知性と教養を身につけられるよう心を砕き続けた。 続きを読む

参院選、大日本帝国の亡霊――戦時体制に回帰する危うさ

ライター
松田 明

「神社の国有化」掲げる政党

 共同通信社による全国電話世論調査(第2回トレンド調査)で、比例代表の投票先として参政党が8.1%となり、国民民主党(6.8%)、立憲民主党(6.6%)を上回って2位に浮上したと報じられていた。
 参政党の支持層については、6月下旬に出た古谷経衡氏による「参政党支持層の研究」が話題になっているので、ここではあえて深く触れることはしない。
※画像は「参政党」X公式ページより

 参政党の主張する「小麦粉の文化は戦後できたもの」(※実際にはウドンは平安時代から、そうめんは室町時代から日本で食されている。パン屋も明治時代から存在する)とか、「癌は戦後できた病気」(※実際には江戸時代に華岡青洲が乳がんの手術を成功させている)、多くの農家から猛反論を浴びた「生産者の大半が自身が手がける食材の危険性を訴えています」といった言説については、もはや各自の賢察にゆだねるほかない。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第89回 正修止観章㊾

[3]「2. 広く解す」㊼

(9)十乗観法を明かす㊱

 ⑦通塞を識る(2)

 (3)天台家の解釈①

 前回記した六師の説に対して、すでに簡潔な批判が提示されていたが、さらに短い批判が説かれる。それについては省略する。ここでは、天台家の五百由旬の解釈について、第一に生死の場所、第二に煩悩、第三に智慧に焦点をあわせて示されている内容を紹介する。
 第一に、生死の場所に焦点をあわせる場合、三界の果報を三百由旬とし、方便有余土・実報無障礙土は五百由旬の場所とするとされる。三界の果報とは、三界内部の煩悩をすべて断ち切った阿羅漢の境地を意味すると思われる。方便有余土・実報無障礙土は、天台教学における四土(凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土)に含まれるものであり、方便有余土は、見思惑を断じたが、まだ塵沙惑・無明惑を断じていない二乗・菩薩の住む国土であるとされる。実報無障礙土は、別教の初地以上、円教の初住以上の菩薩が生身を捨てて住む国土であるとされる。 続きを読む

選挙における「見え方」問題――ポイントは清潔感と笑顔

ライター
松田 明

「ルックス」と得票率の研究

 今回は、選挙における候補者の「見え方」の話である。
 ルッキズムという言葉をご存じの方も多いだろう。「外見至上主義」とも言われ、容貌や外見で人を評価したり差別したりすることだ。SNSの普及とともに、人々は自分や他人の外見を消費することに熱心になり、同時にそのことで息苦しさを感じている人も多い。
 外見や年齢で人を公然と揶揄するようなことは、日本でも社会通念として許されなくなりつつある。

 そもそも何に「美醜」「好悪」を感じるかは、時代や文化、個々人によって違いがある。そのうえで、私たちは視覚情報として入ってくる他者の〝イメージ〟によって、親しみや信頼感を覚えることもあれば、なんとなく好感を抱けなかったりもするのも事実である。
「見た目」のイメージで自分の感情が影響されることは、程度の差はあれ往々にして避けがたい。

 そして、じつは芸能界に匹敵するほど外見にこだわる世界が、政治の世界ではないだろうか。さまざまな職業があるなかで、一部の政治家の外見への執着は、ちょっと他とは比べものにならないのではないかと、かねて思っていた。
 多くの政治家が、選挙にとって「外見」の印象が少なからぬ影響を持っていると考えている証左でもある。 続きを読む