「裏分解」の極意
久場道場(沖縄市)では、日頃の稽古では自由組手を行わない。ただし「昇段審査」では組手を義務づけるという。沖縄の剛柔流や上地流の昇段審査ではさして珍しい光景ではないそうだ。
審査のときにいきなりやります。そこで見るのは、戦える心があるかどうか。いざというときに実際に動けるようにするためには、日頃の心構えが重要になります。今までのところ、(組手から)逃げた人はいません。(久場良男館長)

稽古の後半に2回行った型サイファ
久場道場(沖縄市)では、日頃の稽古では自由組手を行わない。ただし「昇段審査」では組手を義務づけるという。沖縄の剛柔流や上地流の昇段審査ではさして珍しい光景ではないそうだ。
審査のときにいきなりやります。そこで見るのは、戦える心があるかどうか。いざというときに実際に動けるようにするためには、日頃の心構えが重要になります。今までのところ、(組手から)逃げた人はいません。(久場良男館長)

稽古の後半に2回行った型サイファ
米軍倉庫跡を改築したという道場は自宅3階部分のプレハブ建て。拳武館(沖縄市)道場の入口には「沖縄剛柔流拳法」の大きな文字。マットを敷きつめた内部はかなり広く感じる。
道場主の久場良男館長(くば・よしお 1946-)は60年を超す武歴(空手歴)をもつ。中学3年のとき剛柔流の渡口政吉(とぐち・せいきち 1917-1998)道場に通ったのが最初で、高校時代はもっぱら剣道に打ち込んだ。大学時代は名古屋で和道流空手に親しみ、卒業後帰沖して再び渡口に本格師事することになる。
基本に、ものすごくうるさい先生でした。
空手の師である渡口について開口一番そう語った。剛柔流は東恩納寛量(ひがおんな・かんりょう 1853-1915)と、その直弟子であった宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん 1888-1953)、比嘉世幸(ひが・せこう 1898-1966)の流れがメインとして残る。現在、沖縄にあるのは比嘉世幸系、宮城長順の弟子である八木明徳(やぎ・めいとく 1912-2003)系、同じく宮里栄一(みやざと・えいいち 1922-1999)系の主に3系統だ。 続きを読む
サンチンに始まり、カンシワ、カンシュウと3つの型を終えると、新城会長が何やら個別に指示を始めた。グローブをつけて出てきたのは10人中6人の門下生たち。相手を掴めるタイプの赤と青のグローブをそれぞれ着けて、「自由組手」の時間が始まる。
通常の稽古はサンチンで始まり、型の分解などを行って、小手鍛えを行い、最後に組手で締めるのが通常のパターンということだった。
ワン・ミニッツ!
新城会長が時間を宣言すると、最初に白帯と緑帯の門下生がそれぞれ「1分間」向き合う。通常の競技の試合のように、片方が気合の声を鋭く発した。現役時代、組手の試合で大きな結果を出した新城会長の道場だけあって、いまも門下生の中から組手の全国大会に出場する〝猛者〟が後を絶たない。それも小学生から中学、高校、大学、国体まで年齢層も幅広い。
上地流の実戦スタイルは、相手の攻撃を受けたままその手で相手の腕をつかみ、引っ張りながら別の手で(顔面を)叩くというのが基本パターンというが、それをそのまま全空連(全日本空手道連盟)方式の試合で使えば即〝反則〟となる。そのため本来の上地流の技法と区別する意味で、選手養成の場として稽古の中に自由組手の時間が設けられているという説明だった。 続きを読む
沖縄3大流派の1つである上地流の中にあって、県内500人を抱える「拳優会」を率いるのが新城清秀会長(しんじょう・きよひで 1951-)だ。祖父と父親が和歌山の紡績工場時代に流派創設者の上地完文(うえち・かんぶん 1877-1948)に師事し、以来、3代にわたり流派を形成した。父親の新城清優(しんじょう・せいゆう 1929-1981)が1955年、那覇市安里で最初の道場を開設し、60年に嘉手納ロータリーの中にあった前道場に移動する。そこで45年間、激しい稽古の時代が続いた。入門してくる駐留米兵を相手に稽古のたびに自由組手によるけが人が続出し、道場前に救急車が常駐する時代もあったという。
あの当時に比べて、だいぶおとなしくなっています。
現在の道場は再開発に伴う立ち退きで、2005年に嘉手納から移転した。読谷村ながら、立地は嘉手納町に近接する場所だ。
「拳優会本部道場」の一般部(大人)の稽古は月・水・金。8月の金曜夜、取材に訪れた。道場は海辺が近い一帯のやや高台の住宅地にある。
板張りの道場に入って最初に感じたのは、天井が高いことだった。稽古は午後7時から始まり、この日は黒帯を中心に10人の精鋭が顔をそろえた。うち外国人容貌の門弟が数人。女性も1人まじる。稽古は7時を少しすぎて始まった。
ハイ、整列。
彼がいなかったら(空手を)始めていなかったかもしれないですね。
田島一雄・教士8段がそう回想するのはすでに紹介した松林流宗家2代目、長嶺高兆(ながみね・たかよし 1945-2012)との出会いだ。
中学卒業後、高校受験で浪人した際、「補習学級」(予備校のようなもの)で一緒になった。高兆は父親と同じ那覇商業高校にいったん入学したものの途中で辞め、那覇高校を受験したが失敗し、2浪の最中だった。その後、2人は新生高校となる県立小禄(おろく)高校の1期生として入学する。高兆は学校で空手クラブを創部し、田島氏はそこには入らなかったものの、高兆の父・将真の運営する長嶺空手道場に入門した。
浪人時代に一緒に行動するなかで、街でしばしば高兆が喧嘩する姿を傍らで見てきた。
そのころから非常にやんちゃでした。我々何人か男友達を引き連れて、ちょっと変な奴がいたらすぐに喧嘩をしかける。彼はまったく動じない。度胸がありました。レンガ造りの古い建物があったら〝試し割り〟と称してレンガブロックを蹴って柱を崩すこともありました。そうした破壊力をまざまざと見せられて魅了され、私も空手をやってみる気になったのです。
田島氏は、高兆は組手が強かったと述懐する。 続きを読む