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連載エッセー「本の楽園」 第75回 我的日本語

作家
村上政彦

 リービ英雄さんとは、文芸家協会でときどき顔を合わせる。最初にお眼にかかったとき、「村上政彦です」と名刺を出したら、「お名前は、よく存じ上げております」と丁寧な日本語で返されて驚いた。
 彼は、北米で生まれ育ったアメリカ人だ。17歳で日本語と出会って、大学で『万葉集』を学び、それを英訳して、北米でもっとも権威のある全米図書賞を受けた。その後、日本語で小説を書くようになり、作品は高く評価されている。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第74回 片的なものの社会学

作家
村上政彦

 岸政彦の名は、なんとなく知っていた。小説の作者としてだ。『断片的なものの社会学』という本が話題になって、手に取ってみたら、彼の本業が社会学者であると分かった。じっくり読んでみて、これは小説にとって手強い相手が現れたとおもった。
 本書は社会学の本だ。岸が生活史の聞き取り調査の現場で体験したことがしるされている。体系的な著作ではない。まさに「断片的なもの」が満ちている。冒頭でこんなエピソードが紹介される。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第73回 こころ傷んで

作家
村上政彦

僕は小説家を志す前から人物観察が好きだった。たとえばデパートや駅の構内など、人がたくさんいるところへ出かけて行って、何をするわけでもなく、ただ、そこにいる人々を眺めている。
お年寄りがいる。子供がいる。会社員らしい男性がいる。買い物をしている婦人がいる。そういう人々を見ていると、どこからか物語が立ち上がってくる。この人は、こんな家に住んでいて、こんな家族がいて、こんな生活を送っている。本当は、そんなこと分かるはずもないのだが、何となく想像できる気がする。
それを想像してどうするわけでもない。ただ、そこにいる人物を観察して、背後にある物語を愉しむ。僕は大きな書店へ行くと、そこで何時間でも過ごすことができるが、人物観察も同じだった。つまり、僕は人という本を読んでいたのだ。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第72回 ドキュメント レム・コールハース

作家
村上政彦

子供のころ建築家に憧れた。伯父が建設会社を営んでいた影響もあったかも知れない。何もないところに一から物を築き上げていく仕事が魅力的に思えた。ところが僕には色弱という視覚障害があって、ある種類の色の区別がつかない。
建築家は、電気の配線図などを見ることができなくてはならず、そのために色の区別は必要で、色弱には務まらない。同じように、手旗信号などの色を見分けることができなくてはならない船員にもなれない。実は、船員も憧れの職業だった。
建築家にも、船員にも、なれない。これは、けっこうショックだった。母に文句をいった憶えがある。すると、「おまえはテレビ・ドラマの見過ぎだ。産んでもらっただけありがたいと思え」と鼻で笑われた。なんとハードボイルドな母親か。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第71回 アール・ブリュットの作家たち②

作家
村上政彦

アール・ブリュットの代表的な作家のひとり、ヘンリー・ジョセフ・ダーガーは、1892年に米シカゴ市内に生まれた。父はドイツからの移民で仕立て屋を生業とした。ダーガーが3歳のとき、母が女児を出産し、それがもとで亡くなった。妹は里子に出された。
父は教育熱心で息子が就学するまでに読み書きを教えた。8歳のとき、父が体調を崩して老人施設に入所し、少年は孤児院に預けられた。南北戦争における死者数を教師と論争するほど利口な子だったが、感情障害の兆候が見られ、12歳で精神薄弱児施設に入った。 続きを読む