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本の楽園 第190回 ツユクサナツコは幸せだったのか?

作家
村上政彦

 漫画読みになったのは小学校に入るころだった。当時は漫画雑誌の創刊が相次いで、『少年マガジン』『少年サンデー』『少年キング』『少年ジャンプ』『少年チャンピオン』と週刊誌だけで5誌もあった。
 僕はすべて購読していた。発売日には、学校から帰ってまっすぐに本屋へ。すると1台のトラックが店先に停まって、荷台からビニール紐で結んだ漫画雑誌の束を下ろす。馴染みの本屋のおじさんが鋏で紐を切って、1冊手に取ると、ぱんぱんと埃を払う。
「はい、村上君」
「ありがとう」
 僕は掌ににぎりしめて温かくなっている硬貨を渡して、漫画雑誌を受け取る。表紙をめくる。ぷんとインクの匂いが立つ。歩きながらページを繰ると、指先が青いインクで染まる。僕は家にたどりつくまでに、連載の一話を読み終わっている――。
 いまでもそのころのことは、よく憶えている。あんなに夢中になって漫画のなかへ入っていけたのは、名作がそろっていたからだろうか。それとも子供だったからだろうか。その後、だんだん関心が文学に移って、あまり漫画は読まなくなった。 続きを読む

本の楽園 第189回 言葉から言葉つむがず

作家
村上政彦

 びっくりした。俵万智が還暦を過ぎたという。僕からしたら、昨日まで大学生だった親戚の姪が、いきなりけっこう大人な姿で現れたようなものだ。俵万智は、いつまでも『サラダ記念日』の歌人である。

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 しゃきしゃきの生野菜のような言葉の味わい。作者の印象もそうだった。その俵万智が還暦を過ぎた? 61歳? いやー、歳月の流れは速い、といかにも凡庸な物書きらしからぬことをおもった。
『アボカドの種』は、この4年ほどの作品を収めた歌集だ。読んでみると、確かに俵万智は大学生ではない。ひとり息子を大学へやり、けっこう重いらしい病気にもなり、韓流ドラマにはまっている。これは、もはや立派な大人の女性である。しかも、そう若くはない。
『サラダ記念日』は、ひたすら眩しかった。きらきらしていた。ヒカリモノだった。けれど、新作はさまざまな経験を経て、磨きこまれて鈍い艶を出している木斛のようだ。 続きを読む

本の楽園 第186回 半病人の時代

作家
村上政彦

 何かをしようとしても、なんか怠い、気分が乗らない――かといって、重い病をわずらっているわけでもない。いま、そんな人は多いのではないだろうか。
 僕は小説を書くことでたつきを得ている。ベストセラー作家ではないので、小説だけで暮らしは立たない。小説を書く営みを核にして、その周りに広がる細々した仕事をするのだ。このコラムも、そのうちのひとつだ。
 文章を書くのは、楽しい、とはいえない。どちらかといえば、苦行寄りである。いつも仕事をするときには、新聞を読んだり、日記を書いたり、なんらかの準備運動をして、弾みをつけないと、とりかかれない。
 しかし〆切があって、急いでいるときは、まず、仕事部屋へ重い足を運ぶ。気合を入れて、机の前に坐る。覚悟を決めて、パソコンの電源をオンにする。そして、えいやーっと一行目を書く。すると、だんだんエンジンが回転を始める。
 仕事って、たいていそんなものでしょう?
 でも、それができなくなった物書きは、干上がってしまう。『元気じゃないけど、悪くない』の著者は、そうなってしまった。 続きを読む

本の楽園 第185回 ミッキーは谷中で六時三十分

作家
村上政彦

 気になる作家がいて、一度作品を読んでみようとおもうのだけれど、なかなか手に取る機会がない。いや、機会はつくるものだから、手に取るまでの関心が動かないというべきだろうか。
 では、その作家が嫌いなのかと訊かれると、読んでないのだから応えようがない。やはり、手に取る機会がない、としかいいようがないのだ。そういう作家のひとりが、僕にとっては片岡義男だった。
『スローなブギにしてくれ』で野生時代新人賞をもらってデビューした作家ということぐらいしか知らなかった。この小説を原作にした映画もTVのロードショーで観た。映画は率直にいって、あまりおもしろいとはおもわなかった。
 いつもの僕なら原作を取り寄せて比べてみるぐらいのことはしただろう。けれど、このときは、そうしなかった。なぜだかは分からない。それからもう30年近い歳月が流れている。
 そして、最近になって、発作的に片岡義男の小説本を買った。『ミッキーは谷中で六時三十分』だ。これは明らかにタイトル買いだった。見た瞬間に、買わなければ、とおもった。 続きを読む

本の楽園 第184回 戦争語彙集

作家
村上政彦

 去年の2月だったとおもう。ロシア・ウクライナ戦争が始まって1年が過ぎて、文学に何ができるか? というシンポジウムの司会進行を務めた。結論で、ロシア・ウクライナ戦争は、物語の戦争でもあると述べた。
 ロシアは、ファシストの支配から同胞を救う解放者の物語。ウクライナは、祖国への侵略者から同胞を守る英雄の物語。どちらもそれぞれの正義をかざして、この物語を駆動力として戦争をたたかっている。
 文学は、このふたつの物語を解体できるカウンターストーリーを物語ることができるか? 文学を生業とする者として、それをかんがえてゆきたい――このシンポジウムの内容は、『すばる』(集英社)に掲載されたので、興味のある人はそちらをご覧いただきたい。
 さて、そのとき、僕はロシアとウクライナの駆動力になっている物語に対抗するには、もっと大きな物語が必要だと考えていた。その後、考えをあらためた。必要なのは、ひとりひとりの個人に根差した「小さな物語」なのだ、と。 続きを読む