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連載エッセー「本の楽園」 第168回 黄色い家

作家
村上政彦

 先のこのコラムでは、中島京子の『やさしい猫』を紹介した。今回は、川上未映子の『黄色い家』である。
 川上未映子は、詩人としても活躍している。この小説の文章にも印象に残る表現が散見される。うまいなあ、とおもう。嫌味ではない。率直な感想だ。僕が去年だした『結交姉妹』という小説の帯に、吉本ばななちゃんが、「政彦くんはあいかわらず文章がうまいなあ」と書いてくれて、うれしかった。
 でも、僕より川上未映子のほうが、文章はうまいとおもう。やはり、詩が書ける人は、いい文章が書けるのだ。
 さて、『黄色い家』は新聞に連載された小説だ。僕は月刊誌の連載しか経験がないけれど、新聞連載はむずかしいとおもう。1回の文章量が少ないのに、次も読みたいとおもわせる引きがないといけない。毎回、それを工夫しながら書くのは大変だろう。
 生前の中上健次が新聞小説を書いて痩せた、という話を聞いて、あの豪傑がそれほど苦労するのだったら、自分はもし注文があっても、新聞小説は書かないでおこう、とおもった。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第167回 やさしい猫

作家
村上政彦

 近年、日本の女性作家がすごく活躍している。海外に翻訳されて、賞まで受けるのは、男性作家では村上先輩ぐらいだが、女性は何人もいる。これは男性作家が衰えてきたのか、それとも女性作家がたくましくなってきたのか――まあ、もっともこの国の最古の小説『源氏物語』を書いたのが、紫式部という女性作家なのだから、当然のことか。
 というわけで、今回と次回は、とてもおもしろかった女性作家の小説を紹介したい。
 まずは、中島京子の『やさしい猫』。語り手の「わたし」=マヤ(18歳)は、早くに父を亡くして、母のミユキさんと二人暮らしを続けている。いわゆるシングルマザーの家族だ。
 物語は、2011年5月、ミユキさんが突然、東日本大震災の被災地へボランティアにいくと言い出したことから始まる。彼女は保育士なので、現地の保育園で活動するという。それも一週間。マヤは慌てる。
 当時、まだ8歳だから、小学生になって間もない子供である。家事などできない。ミユキさんは、おばあちゃんに来てもらうから、というけれど、マヤは自分の子供よりよその子供のほうが大切なのか、と怒った。結局、ボランティアの期間は5日間になった。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第166回 辻征夫の詩

作家
村上政彦

 十代のころ詩を書いていた。好きな詩人は、日本の詩人では、中原中也と立原道造、外国の詩人では、アルチュール・ランボーとロートレアモン。中学生のとき、ランボーの『地獄の季節』を教科書に隠して、授業中に読んだことを憶えている。
 欧米では詩人から小説家になる例は少なくない。いや、多くの小説家が文学者としてのキャリアを詩から始めている。でも、日本では詩人から小説家になることは珍しいとまではゆかないまでも、少数派だった。
 ところが、近年になって小説を書く詩人が増えている。『現代詩手帖』2023年6月号の特集は、「詩と小説 二刀流の現在」だ。
 翻訳家で鋭敏な批評眼の持ち主でもある鴻巣友季子さんが、どこかで「小説は詩に帰りたがっている」と書いていた。僕は、やはり、とおもった。ロベルト・ボラーニョを読んだとき、同じことを感じたのだ。
 それを直感した「ジム」という短篇が収められているボラーニョ・コレクション『鼻持ちならないガウチョ』の奥付を見ると、2014年発行とある。いまから9年前だ。「ジム」は散文詩のような短篇小説で、読んだときに新しいとおもった。
 ちょうどそのころにノーベル文学賞をもらったバルガス・リョサが、次世代のトップランナーとしてロベルト・ボラーニョを挙げていたので、これは来るな、とおもった。自画自賛になるが、僕は自分の文学的な嗅覚をかなり信頼している。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第165回 大人が絵本を読んで悪いか

作家
村上政彦

 僕の妻は、子供たちみなに絵本の読み聞かせをして育てた。いま事情があって7歳の男の子を育てているけれど、彼女はその子にも読み聞かせをする。幼いころからやってきたので習慣になって、寝るときに子供が本を選んで妻のもとへ持って来る。
 たまたま僕が疲れて横になっているときは、僕も妻の読み聞かせの声を聴きながら眠りにつく。これが、ものすごく心地がいい。僕の母は、酒場でママさんと呼ばれる仕事をしていたので、読み聞かせをしてもらった記憶はない。
 父が早くに亡くなったので、母が外で働いて、祖母が家事や子育てを担って、僕の家庭は営まれていた。だから、祖母が読み聞かせをしてくれたかというと、彼女は尋常小学校中退で、ほとんど文字の読み書きができなかった。読み聞かせをするどころではない。せいぜい、子守唄を歌ってくれるぐらいだった。
 読み聞かせの効果があってか、3人の子供たちは本を読むことが苦にならないようで、長男は建設現場で稼ぎながらバンドをやっているのだが、哲学書などを読む。長女は保育士をしていた母の背を見て育ったからだろう、就活を1カ月で諦めて保育の専門学校へ入って保育士になった。職場では子供たちに率先して絵本や童話などの読み聞かせをしていた。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第164回 弱さのちから

作家
村上政彦

 この数年、「ケア」という言葉をよく見かけるようになった。文学、アート、音楽、さまざまなシーンで、ケアにかかわる作品の制作や、ケアを軸に作品を論じる批評を見聞きした。ケアとはなにか? 哲学者の鷲田清一は、すでにずいぶんとまえから、この問いを発してきた。
『〈弱さ〉のちから ホスピタブルな光景』は2001年に出版されている。

ケアについて考えれば考えるほど、不思議におもうことがある。なにもしてくれなくていい、とにかくだれかが傍らに、あるいは辺りにいるだけで、こまごまと懸命に、適切に、「世話」をしてもらうよりも深いケアを享けたと感じるときがあるのはどうしてなのか

 そういう経験は、僕にもある。それは実存そのものの息吹や体温と関係しているとおもう。もう、だめだ、この先、生きてゆけない、と脱力し、坐りこんでいるとき、よけいな言葉をかけることなく、そっと隣に坐って、ともに時を過ごしてくれた人がいた。 続きを読む