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連載エッセー「本の楽園」 第130回 懐かしい小説家

作家
村上政彦

 小説家になる者は、誰でも「自分の作家」を持っているとおもう。分かりやすい言い方をすれば、好きな作家だ。僕は、あちこちで言っているが、最初に個人全集を買ったのはドストエフスキーだ。次に、友人から梶井基次郎の全集を、ある祝いに贈られた。
 ドストエフスキーも、梶井基次郎も、「自分の作家」だった。しかしどちらも亡くなっていた。生存していて、いままさに小説を発表して活躍している作家として、これは「自分の作家」だとおもったのは、中上健次だった。
「岬」という中篇を読んで、彼が描く世界に惹かれた。荒々しく、禍々しく、しかしどこかに温かな優しさがある。舞台になった紀州の路地は、のちに被差別部落だと知ったが、僕の身の回りにも、同じような土地があって、そこに住んでいる人々とは親しくつきあっていた。だから中上の描く世界は、とても身近に感じられて、自分の生きているこの世界が小説になりうるのだという発見に繋がった。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第129回 読まされてしまった物語

作家
村上政彦

『弱さの思想』、『雑の思想』に続く『あいだの思想』を取り上げるつもりが、まんまと読まされてしまった本があるので、先にそれを取り上げたい。
 僕は野球少年だった。小学校に入る前後は、少し空き地があると、三角ベースで遊んだ。これは、ホーム、一塁、二塁だけでやる野球で、ゴムボールを使い、手で打つ。選手はひとつのチームで数人だから、すぐゲームが成立する。陽が暮れてボールが見えなくなるまで、夢中で走り回っていたものだ。
 小学校の高学年になると、誰もがマイ・バット、マイ・グローブを持っていた。特にチームをつくるわけではないのだが、いつのまにか選手が集まって、野球が始まった。王・長嶋が憧れのスターで、僕の周りはみな、巨人のファンだった。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第128回 雑の思想

作家
村上政彦

 先回のこのコラムで『弱さの思想』を取り上げた。実は、この『――の思想』は3部作で、最初が『弱さの思想』、次が、『雑の思想』、最後に、『「あいだ」の思想』となる。3冊ともすごくおもしろかったので、順にこのコラムで取り上げていきたい。
 今回は、『雑の思想』である。この本も対談集となっている。小説家と研究者の立ち話を聴くつもりで、気軽に読んでもらいたいとおもう。しかし中身は濃い。そこがこのシリーズのいいところだ。
 さて、「雑」というと、一般的にあまりいい意味で使われない。いい加減な仕事をすると、雑な仕事だといわれる。あるいは、部屋の中が散らかっていると、雑然としているといわれる。明らかに否定的なニュアンスを含んだ言葉だ。
 ところが、小説家の高橋源一郎と人類学者の辻信一は、「雑」に肯定的な意味、価値を見出そうとする。高橋が触れているなかで印象的なのは、小説家の言葉だ。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第126回 つげ義春の文章

作家
村上政彦

 僕の作家生活が始まったのは、郷里の実家の近くにある鈴木書房だった。まずはそこに通い詰めて漫画少年になった。僕が物心ついたころは、創刊したばかりの週刊漫画雑誌が熱かった。いつも読んでいるものに、『少年マガジン』、『少年サンデー』、『少年ジャンプ』、『少年チャンピオン』、『少年キング』があった。
 いま残っているのは、『少年マガジン』、『少年サンデー』、『少年ジャンプ』、『少年チャンピオン』。『少年キング』はちょっと刺激が少なかったが、そのうち休刊になった。月間漫画雑誌で読んでいたのは、『ぼくら』と『冒険王』。これも休刊になった。
 僕がこのような漫画雑誌を読んでいたころ、平棚で異質な漫画雑誌を見つけた。僕がいつも読んでいるマガジンやサンデーとは、表紙からして違う。全体に暗い。雑誌の名は、『ガロ』とあった。好奇心の旺盛な僕は、手に取って読んでみた。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第124回 あなたのイドコロ

作家
村上政彦

 居場所がない。家庭、職場、学校など、どこにいても落ち着かない。心の安らぐところがない――そういう人が増えている気がする。新型コロナウイルスのせいばかりではない。居場所がない感じは、それまでからもあった。
『イドコロをつくる』の著者は、「自分が居心地よく精神を回復させる場」をイドコロと呼んでいる。イドコロは僕が考える居場所に近い。そこにいれば、鎧をすべて脱ぎ捨てて無防備でいることができる。身体の疲れを癒せて、心の凝りもほぐれる。充電できる。 続きを読む