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連載エッセー「本の楽園」 第179回 パンク的読書

作家
村上政彦

 本が好きだ。読むのは当然だけれど、手にすることが好きだ。新刊を置いている町の本屋やなつかしい匂いのする古本屋をパトロールして、おもしろそうな本を探すのが好きだ。10代のころからそんな本とのつきあいをしている。
 小説、詩、エッセイなど文学関係はもちろん、画集、写真集、展覧会の図録、ZINE、フライヤーなども、僕にとっては本に部類に入る。文字が書いてあれば、あるいは井筒俊彦風にいうと、そこにコトバがあれば、雲が浮かぶ空だって本になる。
 そんなわけで、好きなジャンルは、本にまつわる本ということになる。たとえば書評集。これは本を読んだ読み手が、その本について紹介し、評価を下し、本の批評に託して世界や人間の在り方を論じたりする。
 それを読んで僕は、自分がすでに読んだ本であれば、書き手の意見を吟味し、賛成したり、反対したりする。いつの間にか読書会になっている。これは本好きにとってパラダイスである。だから、僕の蔵書のなかには、書評集がけっこうある。
 ここでとりあげるのも、古本屋をパトロールしていたときに見つけた書評集だ。『クソみたいな世界で抗うためのパンク的読書』というタイトルと、ZINEっぽい姿(本というよりも小冊子に近い)に惹かれて、手に取った。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第178回 片桐ユズルの詩

作家
村上政彦

 小学生のとき、同居していた血のつながりのないじいちゃんに、ガットギターを買ってもらった。じいちゃんは、僕を本当の孫のようにかわいがってくれて、たいていのわがままを聴いてくれた。
 飽き性で、何事も長続きしない僕が、ギターだけは手放すことなく、中学生のころには、5万円もするアコースティックギターを持ち、文化祭のステージに立っていた。僕のかいわいで、僕よりギターのうまいやつはいなかった。
 当時、僕が夢中になっていたのはフォークソングだった。吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげる――この3人がお気に入りで、特に拓郎のアルバム『元気です』は、耳でコピーして、収録曲すべてを弾き語りできるようになった。
 僕は、卒業文集に未来の自分を、「歌っている。ほかにできることがないから」と気障なことを書いた。けれど、僕は作曲ができないので、音楽で生きていくことは諦めた。僕の関心は文学に向かった。
 つい先日、『関西フォークとその時代 声の対抗文化と現代詩』を読んで、僕が夢中になったフォークソングと現代詩を結びつけようと試みた詩人がいたことを知った。片桐ユズルだ。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第177回 僕の漫画史

作家
村上政彦

 いちばん最初に読んだ漫画は、むかし暮らしていた長屋の、ご近所さんの二階にあった漫画雑誌だったとおもう。まだ小学校にあがるまえだが、なぜか、短篇漫画のストーリーをいくつか憶えている。
 僕は、けして物覚えのいいほうではないので、よほど深い印象があったのだろう。けれど、内容は教訓的な説話風のもので、強い衝撃を受けたわけではないから、どうして覚えているのかわからない。
 やわらかい明かりの電灯の下、大人たちが難しい話をしていて、子供の僕は階段の上り口に近い薄暗い隅のほうで、その家の主が貸してくれた漫画雑誌をひっそり読んでいた。それがその家へ行く愉しみだった。
 自分で漫画を買うようになったのは、小学生になってからだ。当時、『少年マガジン』『少年ジャンプ』『少年サンデー』『少年キング』『少年チャンピオン』と、週刊の漫画雑誌があって、月刊では、『ぼくら』『冒険王』があった。僕は、すべてを買って読んでいた。
 高学年になって、『ガロ』を知った。この雑誌は僕の御用達の本屋には、置いてあったり、なかったりして、なかなか手に入れるのが難しかった。内容は、それまで僕が読んでいた少年誌と違って、かなり大人な世界が描かれていた。だから、恐る恐る手を伸ばし、ページを開いた。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第176回 朝のあかり

作家
村上政彦

 10代のころ、詩らしきものを書いていた。好きな詩人は、立原道造、中原中也。立原の詩は、いまでも好きな一節を暗唱できる。あるスーパーマーケットでごみ処理のアルバイトをしていたとき、小雨の降るなか、ごみを運ぶトラックが来るのを待つあいだ、その詩を口ずさんでいた。いつかプロの文筆家になったら、このことを書いてやろうとおもったことを、はっきりと憶えている(ついに書きました!)。
 ここでその詩を引きたいところだけれど、とりあげる本が詩人・石垣りんの『朝のあかり』というエッセイ集なので、やめておく。
 率直に言うと、その当時、僕は石垣りんを読んだことがなかった。いまや日本を代表する詩人のひとり。でも、僕は読んだことがなかった。名前は知っていたとおもう。そのころ『現代詩手帖』という現代詩の専門誌を読んでいたので、見かけたことはあったはずだ。
 それが読んだことがないというのは、つまり、関心が持てなかったわけだろう。僕は、立原道造や中原中也の抒情に魅せられていて、自分もそういう詩を書いていた。石垣りんの詩は、彼らの抒情詩とはちがう。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第175回 編集の提案

作家
村上政彦

 僕の本業は小説を書くことだ。一般に小説家とは孤独な仕事だとおもわれているらしい。確かに書くときには独りである。口述筆記というやり方もあるけれど、僕はパソコンのワードプロセッサー機能を使っているので、速記者や記録係はいない。
 ただ、実は、編集者という存在がある。彼らは僕の書いたものを読んで、意見を述べ、ときにアイデアを出し、最終的に作品の評価をする。編集者が納得しないと活字にならないのだ。
 つまり、書くときは独りだけれど、僕ら小説家は編集者の眼を感じ、ふと一緒に書いているような錯覚になることもある。編集者は伴走者なのだ。いい編集者はそれを意識していて、こちらが必要なときに相談に乗ってくれたり、思いもかけないときに連絡をくれたりする。
 業界で有名な編集者の言葉に、「編集者は語らず。ただ書かせるのみ」というのがある。彼らは黒子であって、表には出ない。少なくとも僕がデビューしたころの編集者はそうだった。
 ところが最近、編集者が表に出てくることがある。自分の編集哲学を語ったり、それを本にしたり。これは世の中が「編集」という技を求めているからではないかとおもう。
 では、「編集」という技の本質はなんだろうか? 続きを読む