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本の楽園 第183回 パッキパキ北京

作家
村上政彦

 久し振りに痛快な小説を読んだ。帯のコピーに「一気読み必至」とあるけれど、ほんとうに一気読みをした。まあ、長さが手頃だということもある。大長篇ならいくらおもしろくてもそうはいかない。
『パッキパキ北京』――作者の綿矢りささんは顔見知りである。だからといって、大甘の評をかくつもりはない。『ライ麦畑でつかまえて』の主人公は、小説家との関係は、作品を読んでおもしろかったら、と感想を電話できるようだといい、というようなことを言っていた。
 僕と綿矢さんは、そういう親しい関係ではないが、とにかく顔見知りだ(これは自慢です)。日本文藝家協会という物書きの団体があって、僕は常務理事をしている。文壇の大家だからではない。そういう役回りがめぐってくる年齢なのだ。
 綿矢さんは理事だ。だから、月に一度の理事会で顔を合わせる。会合が終わると、食事が出るので、同じテーブルで食べる。そのとき、たまに言葉を交わす。『パッキパキ北京』を読んだときは、主人公のキャラクターが良かったですよ、あれは綿矢さんですよね、と訊いたら、似たような経験をしているので……と答えがかえった。 続きを読む

本の楽園 第182回 河井寛次郎の残した言葉

作家
村上政彦

 民藝を知ったのは、普通の小説を書き始めてからだったとおもう。若いころの僕は古美術の類にほとんど興味がないので、その方面にはうとかった。同時代のアートには、大いに関心を持っていた。僕の10代のころのアイドルは、マルセル・デュシャンだった。
 デュシャン以降のアートについても、アメリカのポップアート、ヨーロッパのアバンギャルドと、広く目配りをしていた。僕は、小説を書いていたが、ジャンルは違っても、同時代の表現者たちが、どのような仕事をしているのかは、知っておかなければならいとおもったし、実際に刺激も受けた。
 だから、いちばん最初に仕上がった小説は、大判の写真を額装にして、詩のような文章がついていた。つてを頼ってある雑誌の編集者に見せたところ、時代から一歩踏み出すと、人はついて来られない、踏み出すのは半歩ぐらいで、ちょうどいいのだ、といわれた。
 確かに、この小説は誰にも認められなかった。でも、僕自身は満足だった。新しい小説を書いたと胸を張っていた。一歩どころか、二歩も、三歩も、踏み出してやる、と意気込んでみせた。
 僕は、自分なりの文学理論を構築して、それに基づいて作品作りをしたのだ。けれど、その編集者は苦笑いして、それもたいしたものではないよ、といった。僕はジェームズ・ジョイスが、家族の臨終の際、祈ってくれ、と願われて、無神論者だからできない、と拒んだ例を挙げた。
 それなら好きにすればいいのでは、と返されて、僕は彼に礼をいって去った。本当はさびしかった。理解者がいないのは辛い。ひとりでもいいから、おもしろい、といってくれる人がいれば、僕はどんどん新しい小説を書き続けただろう。 続きを読む

本の楽園 第181回 愛国者と差別

作家
村上政彦

 アジアの物語作家を自任して20年になる。しかし実際に作品を世に問い始めたのは、この5年ほどのことだ。40代なかばから50代の終わりにかけて、「満洲沼」にはまってしまった。
 いや、そんな土地があるのではない。日本が植民地化した「満州帝国」のおもしろさに憑かれて、手当たり次第に資料を集めて読み漁り、何とか長篇小説を書こうとして、ずぶずぶ沼に沈んでいったのだ。
 最初は、朝鮮半島を舞台にして、日本が朝鮮半島を植民地化した歴史を書く予定だった。それで某出版社の経費で関連資料を集めて、韓国へ取材旅行もした。現地では、出版社を営む人物、大手新聞の記者、政治家、文学者など、さまざまな人と会って話した。
 帰国して、小説に着手したら、国家という存在が気になりはじめた。眼にする国家論を読み砕き、5年ほどしてようやく自分なりに、国家とは何か? が分かるようになった。そうしているうちに、国産みの快楽が味わいたくなって、満州に手を伸ばした。
 ここから300枚ぐらいの小説を書き終えるのに、4、5年かかった。親しい目利きに読んでもらって、助言を受け、改稿しようとしているうちに、台湾が気になりはじめた。これは朝鮮半島の植民地史を書くための資料集めの産物で、なかに台湾の文献があったのだ。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第180回 絶景本棚

作家
村上政彦

 かつてこのコラムで読書する人の写真集を紹介したことがあった。人が本を読む姿は、とても美しい。躰はこの世にありながら、心は本の世界へ没入している。この世と本の世界のつながりが見える。
 ところで、その本だけを撮った写真集がある。『絶景本棚』(本の雑誌社)――つまり、人の本棚がある風景をとらえた写真を集めた本だ。そんなものがおもしろいのか? 読者は、そうおもわれるかも知れない。
 おもしろいのだ!
 むかしある人がいった。君の友人を紹介したまえ。私は、君がどのような人間かを言い当てる、と。僕は、こういいたい。君の本棚を見せたまえ。君がどのような人間かを言い当てる。
 なんて、あまり恰好はつけたくないけれど、本棚を見ることは、その人の内面を見ることだ。だから、僕は自分の本棚を誰かに見せるのが、誇らしくもあり、恥ずかしくもある。ちょっと複雑な心境になるのだ。
 若いころ初対面の人の本棚を見せられて、「恥ずかしい」といって不興を買ったことがある。その人が恥ずかしいことをしたわけではない。本棚に並んでいる本が、ほとんど僕の趣味と合っていた。
 つまり、すでに僕自身が持っている本だったり、これから買おうとおもっていた本だったりしたので、自分の内面を見せられた気がしたのだ。「恥ずかしい」といわれた人は、そんな事情を知らないから、よほど不愉快だったらしく、その後、徹底的に嫌われた。
 だから、そういうことなのだ、人の本棚を見るのは。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第179回 パンク的読書

作家
村上政彦

 本が好きだ。読むのは当然だけれど、手にすることが好きだ。新刊を置いている町の本屋やなつかしい匂いのする古本屋をパトロールして、おもしろそうな本を探すのが好きだ。10代のころからそんな本とのつきあいをしている。
 小説、詩、エッセイなど文学関係はもちろん、画集、写真集、展覧会の図録、ZINE、フライヤーなども、僕にとっては本に部類に入る。文字が書いてあれば、あるいは井筒俊彦風にいうと、そこにコトバがあれば、雲が浮かぶ空だって本になる。
 そんなわけで、好きなジャンルは、本にまつわる本ということになる。たとえば書評集。これは本を読んだ読み手が、その本について紹介し、評価を下し、本の批評に託して世界や人間の在り方を論じたりする。
 それを読んで僕は、自分がすでに読んだ本であれば、書き手の意見を吟味し、賛成したり、反対したりする。いつの間にか読書会になっている。これは本好きにとってパラダイスである。だから、僕の蔵書のなかには、書評集がけっこうある。
 ここでとりあげるのも、古本屋をパトロールしていたときに見つけた書評集だ。『クソみたいな世界で抗うためのパンク的読書』というタイトルと、ZINEっぽい姿(本というよりも小冊子に近い)に惹かれて、手に取った。 続きを読む