芥川賞を読む 第1回 『ネコババのいる町で』瀧澤美恵子

文筆家
水上修一

重い出来事をサラリと書く軽やかな文体から、温もりと余韻が生まれた

瀧澤美恵子著/第102回芥川賞受賞作(1989年下半期)

読者と共に、芥川賞作品を読んでいこう

 芥川賞は、無名もしくは新進作家の純文学作品に与えられる文学賞だ。現在は、五大文芸誌(文学界・群像・文藝・すばる・新潮)に掲載された作品から選ばれることが多い。
 これまで、石川達三、井上靖、松本清張、吉行淳之介、遠藤周作、石原慎太郎、大江健三郎、村上龍、宮本輝など、日本文学界を代表する作家を生み出してきた。けれども、太宰治や村上春樹など、受賞を逃した著名な作家も多い。
 考えてみれば、芥川賞は、不思議な文学賞だ。数多くの売れっ子作家を発掘してきたとはいえ、賞自体は、作家として本格的な出発を切る〝新人賞〟に過ぎない。なのに、まるで日本文学界の最高賞であるかのような扱いを受ける。なかんずく、文学を志す者たちにとっては、遥か彼方に妖しく光るゴールのような文学賞で、それへの執着が人生を狂わせてしまうことさえある、そんな強烈な魔力を持った文学賞なのだ。
 だからこそ、小説を書く人にとって、芥川賞受賞作品は気になるわけで、どんな作品を書けば芥川賞を受賞できるのか、下世話な言い方をすればその傾向と対策が少しでも見えやしないかと思いながら、受賞作品を読む。もちろん、あらゆる芸術において、そんな傾向と対策を求めるなど、不謹慎であり、そもそもそんな発想から優れた作品が生まれるわけはないというのも、実にもっともな話だと思う。
 ただ、それでも、当代の売れっ子作家である選考委員が、自分の文学観をかけて、丁々発止激論を展開して選び出す作品を、しっかり読み、学ぶことは、無意味ではないだろう。
 ということで、この連載が始まった。

 私は、以前、新聞社系の文学賞を受賞し、近年それを単行本化していただいたが、御多分に漏れず、私にとっても芥川賞は遥か彼方に妖しく光る憧れである。それは、小説家を目指す多くの人と同じだ。だから、この連載では、そうした人たちと〝一緒に〟研鑽していきたいと思う。取り上げるのは、平成元年以降の芥川賞受賞作品だ。好き嫌いにかかわらず、順番に全作品を読んでいくことに意味があるように思う。

        

母に捨てられた少女の物語

 平成になって最初の芥川賞(102回)を受賞したのは、瀧澤美恵子の『ネコババのいる町で』だった。原稿枚数は104枚。前年に第69回『文學界新人賞』を受賞し、それが芥川賞候補となり、受賞となった。それまで他の文学賞の受賞歴はないので、突如として表舞台に出てきたことになる。42歳で会社務めを辞め専業主婦となり、48歳から小説教室に通い創作を開始。そのわずか2年後の50歳の時に受賞している。すごい。
 ――主人公・恵理子の母親は、奔放な女性だ。娘よりも、再婚相手のアメリカ人との生活を選び、当時まだ三歳だった恵理子を手放すことに。祖母と叔母が一緒に暮らす日本の家に、まるで荷物でも送るかのように、アメリカから送りつけてきたのだ。
 恵理子は、ショックのあまり一時言葉を失うが、祖母の家と、その隣に住む猫好きなおばあさん「ネコババ」の家で生活するうちに、突然言葉を取り戻す。母親には捨てられたものの、祖母と叔母、そして隣のネコババとの普通の日常生活は、安心できるものだった。やがて、高校生になった恵理子は、名古屋で暮らしているという実父の家を突然に訪問。父はすでに家庭を持っており、恵理子はなす術もなく、確実な愛情や永続的なつながりを得ることはできなかった――。
 幼少期から高校時代まで、多感な少女の目に映った、さまざまな大人の人間模様が描かれているが、不思議なのは、悲惨な身の上にもかかわらず、悲壮感というものがなく、逆に読書後には、静かな温かさが残るのだ。それは不思議な感覚である。
 それは、作者の筆致によるところが大きいように思える。重い出来事を、畳みかけるような熱い文体ではなく、対象物から距離を置いたサラリとした文体で書くことによって、その出来事の陰影を客観的に鮮やかに浮かび上がらせているのだ。
 この点は、複数の選考委員が指摘しているところである。三浦哲郎は「肩の力がすっかり抜けてのびのびと書けている」といい、田久保英夫は「軽やかで抑えた筆が血縁や人間のかかわりの陰影を捉えている」といい、吉行淳之介は「劇的なはなしを無造作のように書いてある」といい、黒井千次は「穏やかな筆致が人間の温もりと小説の面白さを浮かび上らせる作品だった」と、それぞれ述べている。

書き出しは、現在から

 冒頭の書き出しは、大切な祖母と叔母の死から始まる。私は、最初、「なぜそこから始めるんだろう」と思ったのだが、すでに家庭も持ち子どももいる(幸せだろうと想像のつく)大人になった「わたし」が、過去を振り返る形で、三歳からの物語を語り始めたことによって、過去の出来事への客観性と距離感が生まれたのかもしれない。
 血縁とは何か、人と人のつながりとは何か、というテーマを抱えているようにも見えるが、それよりも、どんな偏ったおかしな人間でも否定することなくそのまま受け入れるような視点が作品全体から立ち上がって来て、読後の温かさや余韻につながっているように思える。
 常々思うのだが、女性作家の書く文章には、力むことなく言葉が軽々とごく自然にあふれてくるような感覚のものが多い。この作家もまたその言葉の伸びやかさに感心する。
 選考委員の大庭みな子は、「天性で書いている人のように思える」と述べているが、おそらくそうなのだろう。そもそも、小説教室に通い出した主婦がわずか二年後にいきなり、芥川賞をとるのだから。
 ただ、その後の作品は、あまり注目を集めることもなかった。才能って何だろうと考えさせられるが、自らの才のあるなしを問う前に、さあ、気を取り直して、また次を読もう。

芥川賞を読む:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。