芥川賞を読む 第5回 『自動起床装置』辺見庸

文筆家
水上修一

「眠り」という素材のおもしろさが、読む者を作品世界に引き込む

辺見庸(よう)著/第105回芥川賞受賞作(1991年上半期)

誰も描いたことのないものを描く

 第105回芥川賞を受賞した辺見庸の『自動起床装置』の最大の魅力は、〝眠り〟という素材のおもしろさだろう。誰もが毎日体験し、人生の約三分の一を占める眠りという、あまりにも身近な素材を、レム睡眠とか生体リズムなど医学的な方法ではなく、直観的な洞察によって文学的にアプローチし、徹底して描いていることに驚く。
       
 主人公の「ぼく」は、通信社の宿泊センター(いわゆる宿直室)でアルバイトをしている。主な業務は、宿直者を指定された時間に起こすこと。通称「起こし屋」だ。簡単な仕事のように思えるが、やってみるとこれが大変。寝言、いびき、歯ぎしり、起こされた時の暴力的な反応などなど、人それぞれに異なる眠りと起床がある。可能な限り気持ちよく起きてもらうためには、高度な技術が必要となる。「ぼく」の相棒の聡は、ベテラン起こし屋で眠りに対する理解が深い。それぞれの宿直者の奥深い部分にある核のようなものに向かって、「○○さ~ん、○○さ~ん」と、遠い世界から呼びかけるように起こす。寝起きの悪い人でも気持ちよく起きることができる。
「ぼく」は、聡をとおして眠りの不思議と大切さを知るのだが、人件費抑制のために自動起床装置が導入されるかもしれないということになった。眠っている人間を機械で起こすのは、人間の奥深く、そっと触れるべき世界にあるものを、チェーンソーでいきなりぶった切るようなものだと、聡は主張し反発するのだ。
       
 選考委員に共通する推しの理由は、前述したように素材のおもしろさだ。
 河野多惠子によれば

「眠り」を主題とした作品は今までにまだ覚えがない。幾人もの人間についての眠っている状態、起こされる時の状態を外側から描いて、実によく「眠り」というものを実感させる

であり、三浦哲郎は、

素材の面白さにつられて一気に読んだ。人間の眠り、あるいは眠っている人間というものを、外側からこれほどつぶさに考察した作品が珍しいことは認める

という。
 未開拓の素材を見つけ出し、それを徹底して描き切る――これが芥川賞受賞のひとつのヒントだとは思うけれども、それは言葉で言うほど簡単ではない。
 作者の辺見庸は、当時46歳。共同通信社の外信部次長として働いていた時期に受賞しているから、おそらくこれは職場での経験から着想を得たのかもしれない。夜遅くに仕事を終え宿直したその異空間で感じたものが題材の土台なのだろう。
 物書きにとって特異な経験を持つことは、そこから何をすくい上げどう組み立てていくかが勝負ではあるが、ひとつの財産であることは間違いない。

的確な着地点を見つける難しさ

『自動起床装置』の構成のひとつの柱は、原始的なにおいを漂わすさまざまな植物と睡眠とをリンクさせていることだ。植物は、土の中の根が営む世界があるからこそ、地上に茂る葉や花や幹の地上世界がある。このことを通して、睡眠と覚醒の関連性と平等性を表現している。
 ただ後半、「自動起床装置」が登場してからパタリと消え、同時に物語への引き込み力がガクンと低下する。
 丸谷才一は、

この後半が私にはおもしろくなかった。もっと本式に、二つの軸をきちんと交叉させて、認識を深めて行ってもらひたかったのに

と述べ、
 河野多惠子は、

自動起床装置導入の話が出てくるところから、急につまらなくなった。主人公(と同僚聡)の視方・感じ方が狭く、幼稚に、粗くなる

という。
 自然な眠りや目覚めと相反するものとして自動起床装置の登場が不可欠だったのは分かるが、そこで眠りと植物とのリンクを捨てたのには、何か意図するところがあったのだろうか。おもしろい素材ほど、着地点をどこにするのかは、とても難しいのかもしれない。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。