茂木健一郎の人生問答~大樹のように 「東京五輪の聖火リレーを見て何を考えるか」

脳科学者
茂木健一郎

【質問】東京五輪の聖火リレーを見ていて本当に心が和み、嬉しくなります。沿道で見ている方が「希望がわきます」とおっしゃる理由がよくわかります。もちろん新型コロナ感染を考えると、密をつくるので心配ではありますが、私は続けてもらいたいと思っています。茂木先生はどのように思いますか。(埼玉県・27歳・女性)

感動はリレーされていく

 お書きになっていること、本当にそうだなあ、と思います。
 なかなか先が見えない日常の中で、東京オリンピックが56年ぶりに開かれることの意味を私たちは忘れてしまいがちです。しかし、このような苦しい日常だからこそ、希望のともしびが必要なのではないでしょうか。
 前回、1964年の東京オリンピックの時は、私は2歳にもなっていなかったので、何も覚えていません。ただ、当時経験した方々にとっては、画期的なできごとだったようです。
 ある方は、開会式が行われた国立競技場には行けなかったものの、都内の自宅の近くから、上空に大きな「五輪」が描かれたのは見えたとおっしゃっていました。それが青空に輝いていて、感動的だったと言っていました。
 前回の東京オリンピックでは、「東洋の魔女」と言われた女子バレーボールのチームの活躍や、レスリングで金メダルをとるなどで、まだまだ戦後の復興途上にあった日本が大きく元気づけられた、そんな大会になったようです。
 デザイナーの亀倉雄策(ゆうさく)さんによるオリンピックの公式ポスターや、さまざまな報道写真や映像、そして市川崑監督による記録映画が、当時の雰囲気を伝えています。
 実際にオリンピックを経験した人たちは、どんなに感動したことでしょう。会場に行けなくても、テレビの生中継で、まさにこの日本の東京でオリンピックが開催されている様子を目の当たりにした感激は、想像するに余りあります。
 興味深いのは、オリンピックの余波というものは、それを実際に経験した人以外にもきちんと伝わっていくということです。つまり、オリンピックが人々に与える感動は、直接、間接に関係なく幅広いということです。
 例えば、私が子どもの頃放送されていたアニメ『アタックNo.1』は、女子バレーボールがテーマでしたが、その中で、バレーボールで世界を目指すこと、オリンピックを目標にすることが素晴らしいこととして称賛されていました。
 放送開始は1969年。オリンピックから5年後ですが、その時でも、東京オリンピックの熱狂がまだ余波として続いていたのです。
 たまたま、母親が「ママさんバレー」をやっていたこともあって、『アタックNo.1』は男の子、女の子という区別を超えて興味深い作品でした。母親が参加しているママさんバレーのチームの人たちも、なんとはなしに東京オリンピックの「東洋の魔女」の残照の中にいるような気がしました。
 まだ物心がつく前で、オリンピックを直接体験できなかった私でさえ、そのようなかたちで感動はリレーされていたわけですから、ましてや実際に見聞きした人たちの感激は、どれほどのものだったことでしょう。特に、感受性の豊かな子どもたちへの影響は、多大なものだったと考えられます。
 先日お目にかかった、1984年のロサンゼルスオリンピック体操男子個人総合金メダルの具志堅幸司さんは、子どもの頃にオリンピックでの体操選手の活躍をテレビで見て、自分の人生の目的が決まったとおっしゃっていました。
 何としてでも、オリンピックに出場して金メダルをとりたいと思ったというのです。
 それから、具志堅さんは大変な苦労をされました。2度の怪我で、選手生命が危ぶまれる中、回復されました。そして、調子が最高潮の中で迎えた1980年のモスクワオリンピックは、西側のボイコットによって不参加。大変な逆境を乗り越えられて、ようやく、4年後のロサンゼルスオリンピックで金メダルの栄冠に輝かれたのです。

聖火が消えても私たちの心の中に

 いろいろなアスリートに話を伺うと、オリンピックの熱気は普通の世界選手権とは全く別次元のもののようです。長いアスリート人生の中での悲喜こもごもの苦労と挑戦、そして、それを克服してのぞむオリンピックの晴れ舞台は、万感胸に迫るものがあるのでしょう。
 先日、白血病を乗り越えた競泳の池江璃花子選手の復活劇によって、大きな感動の渦に包まれました。筆舌に尽くしがたい苦しみを乗り越えてオリンピックへのチケットをつかんだ池江選手の涙に、私たちも少しでもこたえることができたらと思います。
 聖火リレーでひきつがれていく炎には、競技にかけるアスリートたちの、そして、さまざまな困難を乗り越えて大会運営を進めてくださっている関係者の方々、そして一般の人々の思いがこめられているように感じます。
 東京オリンピックが今年の夏開催されれば、その感動体験は幅広い年齢層の人たちの中で生き続けるでしょう。
 オリンピックの「レガシー」は、競技場にあるわけでもなく、建物にあるわけでもなく、私たち一人ひとりの心の中に燃え続けるのです。オリンピック・パラリンピックの閉会式が終わって聖火が消えても、その炎は私たちの心の中に受け継がれていくでしょう。
 そのリレーが、もう始まっています。

<月刊誌『第三文明』2021年6月号より転載>

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もぎ・けんいちろう●東京都生まれ。脳科学者。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て、ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞、『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。著書に『脳内現象』(NHKブックス)『挑戦する脳』(集英社新書)など多数。