長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第13回 沖縄・海邦国体のドラマ

ジャーナリスト
柳原滋雄

全空連の対応の変化

 沖縄県空手道連盟(以下「県空連」)ができた後、国体競技に沖縄県が組織的に初めて参加したのは翌年の1982年の島根県で開催された「くにびき国体」(以下「島根国体」)だった。
 10月に行われた島根国体では、比嘉祐直の弟子が型の試合に出場したが、沖縄方式の型は認められないという理由で「失格」にされるハプニングが発生していた。
 長嶺将真は翌月、全日本空手道連盟(以下「全空連」)に対し、指定型についての意見書を改めて提出した。沖縄方式の型のままでを競技を認めてほしいという内容だったが、2カ月後に東京から戻ってきた返事は、長嶺らの嘆願を「拒否」する内容だった。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と豪語して本土の組織に加入してみたものの、全空連の「釣った魚にえさはやらない」といった対応に、「ミイラ取りがミイラになった」と囁かれた。長嶺は沖縄において、責任を問われる立場となった。
 このときから、長嶺は責任者としての心労を重ねていったものと推測される。事実、その3年後、体調不良を理由に、会長を降板。1987年に沖縄県で開催された「海邦国体」(以下「沖縄国体」)を迎える1年半前のことだった。

県民の期待に応える

海邦国体・開会式の模様(沖縄県体育協会『海邦国体総合優勝記念誌』1988年)

 一方で、県空連に新たな朗報もあった。県内の高校教員であった佐久本嗣男(さくもと・つぐお 1947-)が、1984年にオランダで開かれた世界大会で優勝し、翌年以降も世界一の記録を更新していった。これは長嶺の組織における大きなニュースだった。
 さらに佐久本は85年の既述の鳥取国体にも初出場し、型の成年男子部門で優勝、初の日本一となる。
 実にこれが、県空連選手の国体における最初の優勝となった。2年後に行われる沖縄国体に向け、明るい兆しとなった。
 佐久本の優勝によって、型における沖縄勢勝利の見通しが生まれた反面、組手においては依然不安が残ったままだった。競技に不慣れだった沖縄の空手家にとって、組手はまさに〝異種競技〟だったからだ。
 そのため、沖縄出身者で本土の高校・大学に進学し、競技空手(組手)で実績をもつ選手に声をかけ、沖縄県の選手として出場してもらうことが考え出された。
 まず白羽の矢が立ったのは、佐久本が優勝した鳥取国体で、組手の重量級で優勝を果たした翁長勇助(おなが・ゆうすけ 1956-)だった。
 翁長は沖縄で生まれ育ったあと、大阪商大に進学し、同大の空手部で活躍。卒業後は空手の師匠がいる鳥取県から国体に出場し、優勝した選手だった。
 翁長が沖縄国体への出場を快諾したころ、すでに強化練習は始まっていた。総監督を任せられたのは、現在、県空連の第8代会長を務める平良慶孝(たいら・よしたか 1943-)である。
 選手はほぼ全員が社会人で、平日の夜と土日のほぼ全てに練習が組まれた。練習後、コーチや監督による「分析」と呼ばれる作戦会議が行われる。平良が自宅に着くころはいつも午前1時ごろだったという。

ほぼ母子家庭のような状態になりました

 仕事を除いて、監督が個人で使える自由時間はほとんどなくなった。
 そのとき大きな焦点となっていたのが、成年男子の型部門でだれを出場選手にするかということだった。すでに世界一の実績をもつ佐久本が出場するのが当然という考えと、通常どおり、沖縄県大会と九州大会の実績で判断されるべきという考えの2つがあった。
 沖縄国体を前に、その両方の大会で優勝したのが宮里栄一の愛弟子の喜久川政成(きくがわ・まさなり 1946-)だった。喜久川の職業は警察官。出勤前の1時間半、宮里の道場で一日も稽古を欠かさない生活を続けていた。自分が出るべきかどうなのかと葛藤しているときに、宮里から言われた言葉で腹が決まったと振り返る。

沖縄の型をそのまま見せてほしい

海邦国体で優勝した沖縄県空手チーム(沖縄タイムス社『海邦国体グラフ』1987年)

 そして沖縄国体は1987年10月に開催となり、空手は浦添高校の体育館を使って行われた。
 フタを開けてみると、型部門は成年男子、成年女子、少年女子の全3種目で優勝を〝独占〟。組手でも軽量級と無差別級の2種目で〝金星〟となる優勝を獲得し、9種目中5種目を制覇。総合部門でも優勝の〝6冠〟を果たすことになった。
 沖縄県民の期待と重責にさいなまれていた監督をはじめ関係者全員が、ほっとした瞬間だったという。
 組手の無差別級で優勝したのは翁長勇助。翁長にとっては2度目の国体優勝となった。現在も沖縄に残り、国体の名称を冠した「海邦塾」という団体で指導を行う。
 軽量級で優勝を果たしたのは、県の高校教員である宮城敏也(みやぎ・としや 1964-)だった。宮城は沖縄出身ながら中学高校を熊本県の私立学校に通い、福岡教育大学に進んだ。空手部に入り、競技空手に親しんだ。
 沖縄国体の決勝戦では、大学時代に指導してくれた元コーチと対戦する巡り合わせも生まれた。強化練習のたまものか、変に緊張することなく、伸び伸びと試合を楽しむことができたと優勝後に語っている。
 このころの長嶺将真は、体調を崩し、競技会場にも姿を見せなかった。当然ながら優勝した選手に直接声をかけた事実もない。

よく頑張ったな

 長嶺の弟子であった平良慶孝も、後になって、ねぎらいの言葉を受けた。長嶺は沖縄国体をはさんで3年ほど、家族を除いて、めったに人と会わなくなっていた。稽古の指導も行わない。松林流の門弟の前にも姿を見せなかった。その後、長嶺の体を癒したものは何だったのか。
 その長嶺に、次の行動を開始する局面が待っていた。(連載つづく)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。著書に、 『沖縄空手への旅~琉球発祥の伝統武術』(第三文明社、2020年9月)など。