長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第4回 警察勤務時代(上)

ジャーナリスト
柳原滋雄

初任地の嘉手納で喜屋武朝徳に師事

 長嶺将真が沖縄警察の巡査試験に合格したのは1931年秋のことだった。20人ほどの枠に100人近くが応募し、18人が合格した。長嶺もその中に入ることができた。中国から復員して2年が過ぎていた。本人はこう記している。

 無事に満期除隊して帰郷したとき、私は将来の職業について考えてみた。自分の趣味である空手を研究しつつ、それを職業によって生かせるところ、それは警察以外にはない、と考えて、昭和6年9月、沖縄県巡査を拝命したのである。(中略)早く出世したいという考えよりも、空手道そのものに没頭できることが何よりもうれしくて、まるで国から俸給をもらって武道専門学校に通わせてもらっているようなものだと内心思っていた。(『沖縄の空手道』)

嘉手納署勤務時代に師事した2人目の師匠・喜屋武朝徳

 沖縄の警察教習所(練習所)の63期生として入校した。研修中は全寮制で、当時の寮は当時まだできていなかった武徳殿(現在の県議会議事堂付近)の裏手あたりにあったという。制服、制帽、サーベル、警察手帳、捕縄などが貸与された。
 当時、柔道や剣道とともに沖縄県警察のみ、空手が必修科目に取り入れられていた。指導教官は宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん 1888-1953)。宮城は後に剛柔流を開く武人の中の武人として知られるが、長嶺との最初の出会いはこのときに生まれたと考えられる。宮城の脳裏に、警察内に首里・泊手系の有望な若者がいることがこのときインプットされたはずだ。この出会いが、のちに長嶺を大日本武徳会(当時京都に本部を置いた武道団体の総本山)に推薦し、さらに長嶺が普及型Ⅰという空手の入門型を考案することにつながったと思われる。
 3カ月間の研修が終わると、18人それぞれの初任地が発表された。長嶺の行き先は嘉手納署だった。「カデナ」の3文字を耳にしたとき、長嶺の心は小躍りしたに違いない。そこには今は亡き新垣安吉の恩師、喜屋武朝徳(きゃん・ちょうとく 1870-1945)が健在で、空手を指導していたからだ。

 私はまさに好機到来と喜んだしだいである。以前に新垣先生や島袋太郎兄を通して学んでいたところの喜屋武先生得意の「パッサイ」「チントウ」「クーサンクー」の形をじきじきに学ぶことができた。(『沖縄の空手道』)

 このころ喜屋武61歳、長嶺24歳。当時、沖縄本島に軽便鉄道が走っていた時代であり、那覇から南の糸満、東の与那原、さらに北の嘉手納とは1時間ほどで結ばれていた。
 長嶺にとって「深くその影響を受けることになった2番目の師」となる喜屋武朝徳は、常々、「体は3分、努力が7分」と語っていたという。もって生まれた体格よりも努力のほうが大事で、たゆみない努力を続けられるかどうかが大成するかどうかの分かれ道ということを、強調していた。長嶺はこう書き残す。

 体格や武才にそれほど恵まれなかった私が今日あるのは、先生の教訓を守りつづけ、日夜反省してきたからである。(『沖縄の空手道』)

 それから10年後の1942年、長嶺は泊に12坪の道場を新築する。その際、喜屋武は70を超える高齢にもかかわらず嘉手納から足を運び、得意型であったパッサイと棒の型を演武披露したという。弟子思いの師匠であったことがうかがえる。
 話を戻すと、1年半にわたる初任地での勤務が終わり、那覇署への異動の辞令を受けた。那覇署で3年近くすごしたあと、こんどは東京警視庁への半年間の出張を命じられる。長嶺が東京浅草の警察署に初めて足を踏み入れたのは、1936年4月のことだった。

東京勤務で本部朝基に弟子入り

東京出張を契機に師事した3人目の師匠・本部朝基

 当時の浅草は、東京きっての繁華街である。このころ、帝都の東京は騒然としていた。
 わずか1カ月前には「2・26事件」が発生。陸軍青年将校に指揮された1000人規模のクーデター未遂事件が発生し、首相官邸などで政府要人らが暗殺される歴史的な大事件が起きたばかりだった。
 さらに着任後まもなく阿部定(あべ・さだ)という名の30歳の女性が猟奇的殺人事件を起こし、世間を震撼させた。長嶺が派遣された浅草の警察署は、この阿部が逮捕されたときの管轄内で、当時の世情を存分に感じとれる勤務だったようだ。
 とはいえ勤務内容は交番勤務に従事し、地域を定期的に警邏(パトロール)して周る単純なもので、「ほとんどが道案内だった」と回想している。
 この東京勤務時代、長嶺は3人目の空手の師匠と出会った。当時、「大道館」という名称の道場を開いていた沖縄出身の空手家・本部朝基(もとぶ・ちょうき 1871-1944)との出会いである。

 当時、東京本郷区には、空手界の剛拳とうたわれた「本部のサール」こと本部朝基先生がおられたので、私は先生について半年余、独特の組手の指導を受けることができた。(『沖縄の空手道』)

 本部との最初の出会いがどのようなものだったか。新聞記事から引用したい。

 本部先生を訪ねたときのことだ。「型を見てください」と私がまず裸になってやってみた。先生はロクに見もしないで、「型は上等、組手をしよう」とおっしゃる。組手のほうはてんで問題にならぬ。私の手は何を出してもきれいに相手の術中におちる。一汗かいたあとで先生の言うことがまさに極意にふれている。「2呼吸の動作を1呼吸でやる、これが稽古だ」(『沖縄タイムス』1952年9月11日夕刊)

 長嶺にとって、実戦重視の本部の空手スタイルは、新鮮なものに映ったに違いない。
 戦後、長嶺は喜屋武朝徳・本部朝基のそれぞれの師である松村宗昆(まつむら・そうこん 1809-99)と松茂良興作のそれぞれの頭文字をとって、自らの流派を「松林流」(しょうりんりゅう)と命名したが、まさに警察に身を投じたからこそ、喜屋武と本部という不世出の2人に師事するチャンスに恵まれたといえる。(連載つづく)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。 『沖縄空手への旅~琉球発祥の伝統武術』(第三文明社)が2020年9月に刊行予定。