長嶺将真物語~沖縄空手の興亡~ 第2回 泊という土地柄

ジャーナリスト
柳原滋雄

腕白少年として泊で生まれ育つ

 琉球王国の海の玄関口であった泊(とまり)港。そこに隣接する泊村は、古くから首里城のある首里から四キロほど離れた首里氏族ともゆかりのある地域として、地域共同体の結束が強い場所として知られていた。戦前は風光明媚な地域として知られ、泊は「地域全体が家族みたいなもの」といわれていた。明治新政府による琉球処分によって、旧藩が崩壊し、仕事を失う士族階級とともに、泊でも多くが路頭に迷ったが、貧しくても、教育だけは失わなかった伝統がある。そんな土地柄に、長嶺将真(ながみね・しょうしん)は1907年7月に生を受けた。
 曾祖父は琉球時代の科挙制度に合格した人物とされる。当時この試験には500人挑戦して数人しか合格しないとされた時代で、首里の下級役人として奉職した。長嶺の祖父は、この曾祖父の四男にあたる。
 旧藩没落後、長嶺家も貧窮の時代を迎えた。当時、士族から「にわか百姓」に転じる例が続出し、長嶺家もその例にもれなかった。
 長嶺の父、将保(しょうほう 1873-1963)は何度も丁稚奉公を重ねながら、幼少のころから家の借金を返すために働く青年時代を送った。現在の名護市近辺に身売りされて働いたので「山原(やんばる)落ち」などの言葉も生まれたが、20歳を超えたころ、借金を返し終わっていったんは泊に戻ってきた。
 最後の奉公を終えて泊に戻ってきたときは27歳になっていた。同じ泊村出身の女性と結婚し、長男の将真ほか、2人の女の子が生まれた。
 父将保はそのころの時代には珍しくなかった車引きの仕事を始めた。自動車も汽車もない時代、タクシー替わりに利用された人力車は、実際は昼車と夜車があって、夜車には士族から落ちぶれた人も多くまじっていた。
 将保夫婦は子どもの将来に期待をかけ、寝る暇もなく夫婦で働いた。その結果、泊に家を買うことができるほどに成功した。
 長嶺将真はそんな働き者の両親のもと、野原や川など泊の大自然を縦横無尽に駆け巡りながら、腕白少年としてのびのびと育った。

泊小学校時代、船越義珍から空手を習う

長嶺将真が通った時代の泊尋常小学校

 長嶺将真が泊尋常小学校(現在の那覇市立泊小学校)に入学したのは、1914(大正3)年4月のことと思われる。
 思われると記述するのは、沖縄では太平洋戦争時代の空襲などで多くの家屋が焼失し(長嶺の実家も例外ではなかった)、卒業証書などの記録の存在がほぼ皆無で、学校や役所にも残されていないため、本人が死去した現在では推測するしかないのが現状だからだ。
 それでも本人が書き残したものや新聞資料から、確定的な事実を紹介することもできる。
 長嶺がまだ小学3年生のころ、那覇区(まだ市制が施行されていない時代)では、8つの小学校が合同で秋の運動会を開催することが多かった。
 1916年11月13日に奥武山公園で行われた合同運動会の様子が、翌日付の『琉球新報』に報じられている。そこで那覇区の小学校では初めて、唐手を披露したことが紹介されている。
 演じたのは泊小学校の男子だった。長嶺の著作には、当時のことが次のように記述されている。

 筆者が泊小学校3年のころ、那覇区小学校連合運動会が奥武山公園で行われたことがあった。そのころ義珍(ぎちん)先生は泊小学校に教鞭をとっておられて、私たち3年以上の男生徒に『ナイハンチ』と『ピンアン』を教えられ200名余りで団体演武をしたことがあったが、昨日今日のように思い出される。(『史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝』)

 「義珍先生」という人物は、当時48歳の富名腰義珍(ふなこし・ぎちん)。それから6年後の1922年に東京にわたり、唐手普及に後半生をささげることになる「日本空手道の父」とうたわれる人物だ。沖縄にいるときは、小学校教諭を長年つづけていて、長嶺とも直接の接点があったことを裏づける。
 このとき行った型の「ナイハンチ」と「ピンアン」は首里手の型として代表的なもので、唐手は「首里・泊手」と「那覇手」の大きく2種類に分けられる中、沖縄の学校教育に取り入れられたのは前者だった。
 富名腰はその後、「船越」と日本式に姓の字を変え、日本本土に松濤(しょうとう)館という流派を残したことで知られる。

那覇商業学校に入学

長嶺が難関を突破して入学した時代の那覇商業学校(場所は現在の那覇中学校)

 当時の教育制度は複雑である。時期によって小学生の修学年限が4年から6年に変わったりする。長嶺の時代は、泊尋常小学校で6年間をすごしたあと、現在の高等学校にあたる那覇商業学校に入学しているが、その間に小学校高等科に在籍した可能性がある。ただしそれは文書で確認したわけでなく、当時の進学コースからすればそれが通例であったということだ。
 当時、那覇区における高等小学校は那覇尋常高等小学校(現在の那覇市立上山中学校)の1校のみで、そこで2年間学んだ可能性がある。
 ただし当時の那覇商業には、すでにこの高等小学校を経由しないで各尋常小学校からストレートで進学する道も開けていたようなので、詳細は確定できないままだ。
 いずれにせよ、長嶺は10代の半ばで那覇商業学校に進学した。このときの那覇商業は、現在の那覇商業高校のある場所ではなく、いまの市立那覇中学校の敷地内にあった。
 海岸に近いこの学校に長嶺が入学するのは1922(大正11)年4月のことで、長嶺が15歳になる前の春だった。(連載つづく)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。 『沖縄空手への旅~琉球発祥の伝統武術』(第三文明社)が2020年9月に刊行予定。