長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第14回 沖縄空手界の再統一へ

ジャーナリスト
柳原滋雄

ゆるやかな統一組織「沖縄空手道懇話会」

 全沖縄空手道連盟から国体競技に参加するために分かれた沖縄県空手道連盟。1980年代の沖縄空手界は組織が完全に二分されていた。87年に開催された沖縄海邦国体の空手競技では、沖縄県は念願の全国優勝を果たしたものの、両連盟の関係者は、双方顔を合わせても口をきかないといった関係が続いていた。
 こうした時期に、このままではいけないと考えた新聞人がいた。『琉球新報』の記者として20年以上勤め、そのころ、広告局に異動し、イベントを担当するようになっていた濱川謙(1940-)である。
 濱川は編集局を離れ、広告に行くのは不服だったと語るが、社からは企画力を認められていた。仕事はじめに社内で埋もれていた多くの企画書に目を通すなかで、空手に関して過去に作成された文書が目にとまったという。「武芸祭」の企画は、もともとは県の観光開発公社が作成した中に含まれていた。すでに日がたっていたので、その企画書が生きているかどうかを確認すると、まだ生きているという回答だった。濱川は社内を説得し、動き出す。最初に訪問したのが、長嶺将真の家だったと語る。

最初の武芸祭が開催されたのが89年3月でしたから、その1、2年前に長嶺先生のところに足を運んだと思います。先生は武芸祭の企画について、前向きにとらえてくださり、分裂した組織についても、統一をめざすことに賛意を示してくださいました。先生としても忸怩(じくじ)たる思いがあったようです。

 長嶺の提案により、濱川は八木明徳の家を訪ねた。さらに那覇市議会議長を勇退していた比嘉祐直にも相談に訪れた。いずれも前向きな感触を受け取ったという。そのころ、上地完英だけが体調を崩しており、面会が叶わなかったと語る。
 濱川は空手界の長老クラスに参集してもらったときの様子が忘れられないという。

ホテルで会食させていただいたのですが、ある先生が「横を向くと憎たらしい顔があるから、上を向いて行こう」とおっしゃったんです。当時の空手界の雰囲気を象徴する場面として印象に残っています。

1989年3月に「武芸祭」が初めて開催された(『琉球新報』3月6日付)

 そうした会合が何度か繰り返され、両派のわだかまりは、薄紙を剥がすように溶けていった。前述のとおり、89年3月に「第1回 沖縄県空手道武芸祭」が開催され、それは県内各流派が一同に会する機会となった。翌90年には「世界のウチナーンチュ大会」が初めて開催され、それ以降、毎年のように武芸祭が開催された。武芸祭はトータルで8回開催されている。90年4月には、『琉球新報』が「空手新聞」の掲載を始める。
 そうした流れのもとで90年12月、「沖縄空手道懇話会」(「懇話会」)の設立総会が開催された。呼びかけ人には、「沖縄空手四天王」の長嶺や八木、比嘉のほか、沖縄空手3団体の会長が名を連ねた。当然ながら、それは沖縄県空手道連盟と全沖縄空手道連盟のゆるやかな再統合を意味し、沖縄空手界の統一が再び果たされたように見えた瞬間だった。
「懇話会」の会長は経済人が務めることになった。すでに軋轢が生じていた両連盟に所属する空手家では統率を保てないという当事者の大人の判断がまじっていた。「懇話会」が当初掲げたビジョンには以下のような項目が並ぶ。

・空手道大学の設置
・教育課程に空手を導入
・空手を県指定無形文化財に指定する
・世界大会の開催
・「空手の日」の制定
・空手会館の建設
・「空手の人間国宝」認定

「懇話会」発足から30年以上すぎた現在、これらの目標の多くがすでに達成されていることに驚く。その意味でも1990年は、沖縄空手界において、分断から統合への〝反転攻勢〟となったエポックメーキングな年だったといえる。「空手の琉球処分」に翻弄された当時の長老たちにとって、空手家とは直接の利害関係をもたない中立的な仲介者を得たことで、「このままではいけない」という気持ちが結束に向かわせることにつながったといえる。
「懇話会」はその後93年4月に発展的に解消し、「沖縄県空手道連合会」(「連合会」)として再スタートする。

長嶺と八木の共闘関係

「沖縄空手道懇話会」が1990年12月8日に設立(『沖縄新報』12月9日付)

 問題は、沖縄空手界がいったん再統一されたように見えたものの、実を伴った統一はそう簡単ではなかったということだ。最初に「懇話会」を抜けたのは、当時第3代会長をつとめた宮里栄一の率いる沖縄県空手道連盟(「県空連」)だった。ただし正式な「脱会届」は出されていない。形式的には「県空連」は「懇話会」に残ったままの状態が続いた。
 「県空連」を立ち上げた長嶺将真自身は、古巣ともいえる「県空連」の行動を苦々しく感じていた。自らは「懇話会」に残り、「連合会」に移行したあとも、97年に亡くなるまで、「連合会」の役員を続けた。
 この事実は何を意味するか。
 前回でも述べたとおり、長嶺は国体競技参加の名目のもと、いったんは全日本空手道連盟の組織に入ることを決断したが、結果として沖縄空手を本土で広めるという当初の理想はかなえられず、挫折を感じていたことは間違いない。さらに「虎穴に入らずんば虎子を得ず」との格言を用いて説得を試みたものの、その〝虎穴〟がどのようなものかもはっきり見えないまま動いてしまったとの反省の念を抱いていた。
 長嶺の行動の背景に、贖罪意識が強くあったことは明らかだ。同じことは八木明徳にもいえる。八木が会長をつとめた全沖縄空手道連盟はその後、「連合会」から実質的に抜ける事態へとつながる。だが長嶺と同じく、八木も単独で「懇話会」(後の「連合会」)に残り続けた。
 私は2人のそうした行動に、武人としての潔い関係を見る思いがする。人間だれしも人生において何らかの過ちを犯すことは避けられない。それでも互いを認め合い、許し合える関係がそこにはあった。沖縄戦という未曽有の歴史的体験を生き延び、沖縄伝統空手の普及にその生涯を捧げてきた沖縄人同士の強い連帯を見る思いがする。
 91年2月、「沖縄空手四天王」の一人であった上地完英が79歳で他界した。さらに比嘉祐直も94年11月、この世を去る。享年83。
 このころの沖縄空手界は初めての世界大会の開催をめざし、次の時代を見すえ、動いていた。初の世界大会が開催されるのが1997年。そのプレ大会が、沖縄戦から50年過ぎた1995年の夏に開催された。(連載つづく)

【好評連載】長嶺将真物語~沖縄空手の興亡~
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【WEB連載終了】沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流:
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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。著書に、 『沖縄空手への旅~琉球発祥の伝統武術』(第三文明社、2020年9月)など。