長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第10回 『沖縄の空手道』を発刊

ジャーナリスト
柳原滋雄

父子一体で世界に羽ばたく

 1969年1月、長嶺将真は最初の海外指導に出かけた。
 すでに5年ほど前、第1号となる海外指導員をアメリカのニューヨークに送り出し、「沖縄松林流USA本部」の名称で組織化していた。以来、沖縄から次々と指導員を派遣していた。
 1967年には長男の高兆(たかよし)をオハイオ州へ送り出した。現在、松林流の海外支部の多くが北米・南米に集中するのは、こうした開拓の成果といえる。
 長嶺は最初の海外指導に70日ほどかけているが、生涯において4度の海外指導を敢行している。
 1月10日、那覇を飛び立つとき、空港には「全沖縄空手道連盟」の主要幹部が見送りに駆けつけた。比嘉祐直(ひが・ゆうちょく 1910-1994)、兼島信助(かねしま・しんすけ 1897-1990)、島袋善良(しまぶくろ・ぜんりょう 1909-1969)、上地完英(うえち・かんえい 1911-1991)など当時のそうそうたるメンバーである。
 長嶺は前身組織の「沖縄空手道連盟」の会長を6年、さらに「全沖縄」の会長を2年、計8年の任期を務めた。その最後の時期に1回目の海外指導は位置づけられる。

初めての海外指導を記した長嶺将真の日記(1969年)

 行程はニューヨーク、トロント、オハイオと移動するもので、そのころ5つの道場をもっていたニューヨークが指導対象のメーンとなった。海外支部の実態を自分の目で確認するとともに、すでに始めていた空手文献の出版準備のため、現地の状況を視察する意味もあった。
 なぜならそのころ英文で出版されていた空手の本は、日本本土の空手ともいえる松濤館から出された本が複数あったほか、沖縄で上地流空手を修業した米兵出身のアメリカ人が出した本くらいしかなかった。沖縄空手界の責任者の自負をもつ長嶺は、沖縄発の空手本を出版することこそ自らの〝使命〟と感じていたにちがいない。
「初めての海外飛行」となった飛行機は、羽田とシアトルを経由し、定刻どおりニューヨークの飛行場に到着した。このとき出迎えた中には、2年前に沖縄から送り出した23歳の高兆の姿もあった。
 一行は時差を気にすることなく、そのままニューヨークの道場に向かった。以来、長嶺は連日、ニューヨークにあった5つの道場で指導し、空いた時間は弟子の案内で市内見物などを行っている。
 長嶺がこのときの海外指導の日々を綴った日記が残されている。表紙に「思い出の世界空手行脚」と書かれ、「第一回渡米、カナダの日誌」という脇書きが添えられたノートだ。
 長嶺が自分の目で確認したところ、ニューヨークでの空手普及は総じてうまくいっていたようだった。そのことは、

黒帯のみの稽古であるが、黒帯の進歩には頭が下がる思いである(2月6日)

などの記述から容易に読み取れる。翌日にはこう記されていた。

私は今日も静かに考えた 吾が道を行くのみである 親子で完成しようと

 短い言葉ながら、父子一体となって、空手の道を完成させたいとの思いが綴られていた。
 ニューヨークからカナダに出国する際は、7年ぶりの寒波に見舞われ、出発日を延期するハプニングも起きた。ニューヨークと違い、カナダのトロントでは、空手の型がいい加減な形で伝えられており、秘かに苦悩する場面も描かれている。
 カナダからニューヨークに戻り、こんどは隣接するオハイオ州へ向かった。息子の高兆はこのころ、大学での勉学のかたわら、空手普及のために情熱を燃やしていた。そんな様子をまじかに見た将真は、心の底から安堵した思いを日記に残している。

どんな生活をやって居るのか、はたして長く続けることが出来るか不安であったが、彼の考え方、日々の生活振り等を見て、私は自分の息子として彼の前でほめたい位である。(2月27日・原文ママ)

 沖縄に戻ると、「全沖縄空手道連盟」の定期総会が待っていた。長嶺は2年間の会長生活を終え、2代目会長を兼島信助に譲った。
 この年の11月、沖縄にとって大きな出来事が発生する。渡米中だった佐藤栄作首相がニクソン大統領とワシントンで会談し、共同声明を発表した中に、沖縄返還の文字が書き込まれたからだ。返還時期は3年後の「1972年中」と明記されていた。

本土復帰と著書発刊

長嶺の念願の著作『沖縄の空手道』(1975年刊)

 沖縄が本土復帰する1972年5月までの時期、長嶺は沖縄空手を宣揚する著作の準備に余念がなかった。松林流には18の型が残されていたが、自らすべての型演武を写真撮影し、掲載させた。
 念願の著作『史実と伝統を守る 沖縄の空手道』が発刊されたのは1975年2月。箱入り、370ページを超える立派な本で、同月19日、琉球新報ホールで出版祝賀会が開催された。
 この本の最大の特徴は、沖縄の空手と本土のスポーツ化された空手の違いを強調し、沖縄空手の真髄を世に知らしめようとした点にある。
 翌年には手回しよく、英語版も発刊され、それに伴い、2度目の海外指導が企画された。このとき長嶺に同行したのは、英語版の出版交渉をはじめ、英訳作業を中心的に担った新里勝彦(現沖縄空手道松林流喜舎場塾塾長)である。
 新里は沖縄の大学で言語学を教える立場で、長嶺の信頼も厚かった。2人は50日以上かけて、アメリカ各地を回っている。
 このころ、日本ではブルース・リーのカンフー映画が大ヒットし、空手に対する関心はいやまして高まっていた。長嶺道場も入門者であふれ返り、稽古の際、広い道場にも入り切れないほどの人数に膨れ上がることもしばしばだった。
 1978年、長嶺道場の片腕ともいえた久志助恵が、69歳で他界する。長嶺が弟子の仲村正義や真喜志康陽らを伴い、3回目の海外指導を赴いたのはこの年だった。さらに空手界のエポックとして、長野県で開かれたやまびこ国体に、笹川良一が会長を務める全日本空手道連盟が初めて参加したのもこの年だ。
 3年後の1981年、空手は国体の正式種目として採用される。実はこの事態が、沖縄空手界の要職からいったんは身を退いたつもりでいた73歳の長嶺の余生を、激変させることにつながる。(連載つづく)

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【WEB連載終了】沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流:
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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。著書に、 『沖縄空手への旅~琉球発祥の伝統武術』(第三文明社、2020年9月)など。