長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第7回 戦後の再出発

ジャーナリスト
柳原滋雄

最後の署内柔道大会

 焼け野原となった那覇に戻ってきてからの長嶺の仕事は、みなと村の管理だった。当時、那覇港から陸揚げされる物資の荷揚げ作業を国場組が一手に仕切っており、警察内部で長嶺に担当させようという声が出たという。殺しや盗みといった犯罪を扱う純粋な刑事警察より、経済警察のほうが長嶺の得意分野だった。
 みなと村を統括する警備派出所の責任者として仕事をした。敗戦国民である日本人の力は弱く、警察官であることがわかると身の危険があったため、警察官は制服を着用しないで勤務する時代だったという。
 このころ焼け野原となっていた那覇市で米軍による規格住宅づくりが推進された。長嶺家にも割り当てが回ってきた。住所は「牧志町2丁目」で、この住宅を少し改造して仮道場となし、そこで初めて「松林流」の看板を掲げた。長嶺の流派の始まりである。時に1947年7月のことだった。
 それから那覇署勤務と警察学校勤務を何度か繰り返した後、1951年1月、地方警察官としては最高位の階級である「警視」に昇進した。当時の警視は警察署長の任にあたる。長嶺は本部(もとぶ)地区警察署の署長に任命された。

長嶺が1951年に署長を務めた現在の本部署

 このころ、長嶺には一つの試みが胸に秘められていた。全琉(沖縄県全体)で13ある警察署対抗で行う秋の柔道大会。この大会で沖縄一をめざしてみないかと、着任早々の席で、署員にけしかけたのである。
 警察内では研修時代から、柔道、剣道、空手が必修になっており、中でも長嶺は「空手の使い手」として警察内でも有名で、さらに柔道、剣道にも熱心という評判が強かった。そんな署長が赴任することが決まり、待ち構えていた署員の前で、新署長が思いもかけない大胆な目標を提示した。
 このアイデアに、若き署員らは奮い立ったという。本部署は沖縄本島の中では地方だ。勤務地も点在し、署員が集まって合同稽古する機会や時間も限られる。そこで考えだされたアイデアが、選手に選ばれた者は仕事をしなくてよい、代わりに他の署員が仕事の穴埋めを行う。選手に選ばれた者は、一日中、専門に稽古を行うという奇抜なものだった。長嶺は著書で次のように記している。

 200人を擁する大警察たる前原署、コザ署、那覇署などの選ばれた猛者連の黒帯組に比すると、私の率いる本部署はわずかに60人足らずの署員、その中から編成された8人のチームの内容はすべて白帯だけである。ところが、この私のチームが全琉13の警察署を制覇して堂々の優勝を成し遂げたのである。1年近くにわたった、文字通りの血の出るような荒修業がここに実を結んだわけである。私も補欠として選手名に登録されていたので、私を含めて選手全員が、この時に文句なしに認められて黒帯をもらった。(『沖縄の空手道』)

 最後の決勝戦は本部署対那覇署で行われた。那覇署の5人目となる主将は宮里栄一(みやざと・えいいち 1922-99)。剛柔流空手の使い手でもあった。ここで本部署の主将は最後に粘り勝ちする。
 本部署は弱小ながら、新たな署長をもとに全員の団結と意地で、優勝をはたした。長嶺が退職を決意したとき、多くの署員が惜しんだのもうなずける。
 長嶺はそれから3カ月後の1952年1月、20年間の警察人生を終え、新たな道に踏み出すことになった。

本格空手道場の建設

久茂地に建設された長嶺道場。建物はことし取り壊されるまで70年近く存在した(「世界松林流空手道連盟 長嶺空手道場」のホームページから)

 長嶺が警察官を退官したその年は、日本が連合国から独立した年でもあった。同年4月、日本本土は占領軍からの独立を果たしたが、沖縄は依然、米軍による支配がつづくことになった。
 長嶺が警察官を辞めたのは、本格的な空手道場を那覇市内につくり、空手にもっと時間を使うという願望があったからだ。
 本部署時代は週末だけ那覇の家族のもとに戻ってくるという生活で、空手指導も十分に行えなかった。そうした思いが、那覇に本格的に腰を据えて、空手指導に専念したいという思いを強くしたとも思われる。また、柔道大会での優勝が、自分の警察人生の区切りとしてふっきれるきっかけになったのかもしれなかった。
 長嶺は退職と同時に新道場の物件探しをはじめ、国際通りから少し入った場所に、ふさわしい土地を見つけた。土地は借り物だったが、その上に建設した道場兼自宅は、新築の建物である。
 息子の高兆(たかよし)が小学校に入学する時期にもあたり、父について空手を始めたのはこのときだった。長嶺からすれば、自身の後継者に対して空手教育を開始する好機が訪れたと見定めていたかもしれない。
 念願の道場開きが行われたのは退職後2年たった1954年1月24日のことで、翌日付の琉球新報に記事が掲載された。「気合に復興の熱こめて きのう松林流の道場開き」と見出しが打たれた記事では、24日の午後2時から比嘉主席夫妻、当間那覇市長などを来賓に100人が参加して行われたと記載されている。
 比嘉主席は現在でいうところの県知事にあたり、米軍に次ぐ当時の琉球政府の最高ポストだ。さらに那覇市長も参加したわけだから、はなばなしい出発だったことがうかがえる。(連載つづく)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。著書に、 『沖縄空手への旅~琉球発祥の伝統武術』(第三文明社、2020年9月)など。