第4回 東京の小学校で取り組んだ牧口先生の教育実践
下町の⼩学校⻑として全国の模範校を目指す
1913年(大正2年)4月4日、牧口常三郎先生は東京市下谷区龍泉寺町(現在の台東区三ノ輪)にある東盛尋常小学校の校長に就任しました(41歳)。その後は、同区内の大正尋常小学校と西町尋常小学校の校長を歴任します。
これらの小学校の通学区域には、職を求めて東京へやってきた経済的に豊かでない人々が多く住んでいて、小学校に通えない児童も少なくありませんでした。そのため、教員として欠かせない仕事の一つは、児童を学校に送り出す大切さを父母らに理解させることでした。
また牧口先生は、地理・綴り⽅・書き⽅の教授と、昼間通えない児童が学ぶ夜学校の充実などにも⼒を注ぎました。東盛尋常⼩学校を視察した北海道小樽の⼩学校⻑は、視察後の報告書に「同校では、郷⼟地理と綴り⽅(作⽂)について視察した。特に綴り⽅については、研究を重ねた教案によって⾏われ、その効果が顕著に表れている(趣意)」と記しています。
次に牧口先生は、新設された大正尋常小学校の初代校長を務めました。当時の牧口先生について、戸田城聖先生は、『聖教新聞』に連載された小説「人間革命」のなかで、「全国的模範⼩学校を作るために⼤正⼩学校の校⻑となられた」と書いています(※1)。この言葉通り、開校にあたり牧口先生は、全国から教員を集めました。
1922年(大正11年)に発行された『東京視察案内』には、次のように記されています。
牧⼝⽒は地理および綴り⽅の研究家で、綴り⽅は形式主義(⽂章範型応⽤主義のこと)であり、地理は⼈⽣地理学の考え⽅に基づいている。大正尋常小学校の夜学校は貧⺠⼦弟のための学校であるが、専任教員を置いて、適切な授業を⾏っている。牧⼝⽒は部下の教員を適切に指導し、皆が喜んで⽒を⽀えていた(趣意)
教育技術の向上と子どもたちとの関わり
大正尋常小学校では、教員が交代で週1回の研究発表会〝月曜講演〟を実施。さらに、創立記念日には他校の教員などを招いた公開授業を行いました。
第1回の公開授業は、沢柳政太郎博士(※2)を会⻑とする教育教授研究会から委嘱されたものです。この時、牧口先生は、「地理教授の革新」というテーマで、授業と講演を行っています。後年先生は、沢柳会長から「余は⼗数年間全国の諸学校の実際授業を⾒たが、今⽇の如き会⼼の授業を⾒たことがない。畢竟教授法許りでなく、地理学の造詣の深きに基づいている(趣意)」との激賞があった、と記しています(※3)。
第2回の公開授業は書き⽅について、第3回は綴り⽅と書き⽅について、⼤正尋常⼩学校の教員が授業を⾏い、牧⼝先生が補⾜説明を行いました。こうした機会を通して、教員の教育技術の向上を図ったのです。藤原喜代蔵著『明治・⼤正・昭和 教育思想学説⼈物史』第3巻・⼤正年代篇(1943年刊)には、「常に⾃ら教育問題の研究に⼒め、配下の教員にも絶えず修学を奨励し、志ある者に種々の便宜を与へた。後年、その教員の中から出て名を成した者も⼀⼆に
また、牧⼝先生は、子どもたちとの関わりを大事にされていました。朝の登校時には校⾨や⽞関に⽴って、気になる⼦どもがいれば、声をかけていました。授業時間中も、邪魔にならないように気を配りながら、児童の学習の様子などを見てまわっていました。
牧⼝先生の校⻑在任中に、⼤正尋常⼩学校で1年⽣から3年⽣まで学んだ物部信⼦さんは、「⾝体の弱い私は、⾬の⽇は学⽤品と薬袋⼀式と傘で⼤変でしたが、⼀⽣懸命歩いていると牧⼝先⽣が『何か持ってあげよう』と⾔葉をかけてくださいました」「私たち⼦どもに対しても『◯◯さん』と『さん付』で呼んで下さり、本当に⼼の温かい先⽣でした」(趣意)と述べています。
度重なる圧迫のなかでも子どもたちの幸福を追求

東盛尋常小学校校長時代の牧口先生(『大日本現代教育家銘鑒』第二輯、教育実成会、1915年所収)
大正尋常小学校創立から3年が経った1919年(大正8年)12月、陰の東京市長といわれた高橋義信議員が動いて牧口先生の転任が発表されます。これに
転任阻止運動が広がるなか、牧口先生は〝皆に迷惑をかけてはいけない〟と西町尋常小学校への異動を受け入れることにしました。この西町尋常小学校在任中に、牧口先生は、戸田先生と出会うことになります。
西町尋常小学校に転任した後も牧口先生への圧迫は続き、半年後にはさらなる異動が発令されます。この時も、教員たちは牧口校長を守ろうと運動しました。しかし、先生は赴任からわずか半年で、〝首切り校〟と呼ばれていた特殊小学校11校の一つ、三笠尋常小学校(現在の墨田区亀沢)へ転任することになりました。
特殊小学校は、⼦どもたちの就学を促すために東京市が開設しました。ここでは、学用品は給与もしくは貸与され、児童の理髪や月2回の⼊浴も学校で行われていました。また、衛⽣環境が悪い家庭が多かったことから、児童には結核が蔓延し、教員にも罹患する人が多く出ました。在任中、牧口先生は、構内の校長住宅に住みながら勤務しています。
三笠尋常⼩学校を訪れた雑誌『北海道教育』の記者は、窓ガラスが壊れ厚紙で外気の侵⼊を防いでいることから、その第一印象は、「冷遇されつつある学校」だったと書いています。そして、「(牧⼝)先⽣としては、

1921年12月8日付の『読売新聞』朝刊4面。見出しには「小学校で貧しい児童に無料で昼食給与 本所の三笠小学校の試み 夜学児童にも給与の計画 パンと汁を二椀」と書かれている
牧口先生は、度重なる圧迫を受けながらも、目の前にいる子どもたちをどこまでも大切にされていたのです。
先生は、教科の指導だけにとどまらず、児童の健康についても心を配っていました。
牧口先生の近親者は、「先⽣の児童に対する愛情は⼤へん厚く、特殊学校三笠に於ては先⽣が(東京で)最初に給⾷を始め、困っている児童には⾃分の給料をさいてまで⾷を与える程であった。病気の⼦どもの家へは校⻑⾃ら出むいて、何かと⾯倒を⾒てやることもしばしばあった」と証言しています。
実際、牧口先生は自らお金を出して、空腹の子どもたちのために食べ物を用意しました。しかし、それだけではありません。昼食を持参できない子どもたちにパン1個と味噌汁2杯の給食を実施したのです。それは、アメリカ・シカゴ市内の貧民学校で行われている「ペニーランチ」をモデルにしたものでした。
またこれは、後の話になりますが、牧口先生は、子どもたちが安心して度々入浴できるようにと「お風呂代の値下げ」の陳情を行い、都会の児童の健康を考えて、林間学校開設を提言しています。
牧口先生は、子どもの〝学び〟だけでなく〝児童の幸福〟を見据えた教育を追求されていたのです。
教育の目的は興味を起こさせること
牧口先生は、『創価教育学体系』第3巻において、「興味を
学校や地域・家庭において、子どもたちのなかにある無限の力を引き出していけるよう、一層の努力を続けてまいりたいと思います。
(注釈)
※1 『聖教新聞』1952年4月20日付1面
※2 沢柳政太郎は、東北帝国大学・京都帝国大学の総長、帝国教育会会長などを歴任。大正自由教育運動において、重要な役割を果たした
※3 『創価教育法の科学的超宗教的実験証明』(1937年刊 第三文明選書、2023年、P287〜288)参照。『普通教育』1918年6月号に掲載された内容を紹介している
※4 『牧口常三郎全集』第6巻(第三文明社、1983年)、P138
<月刊『灯台』2025年8月号より転載 構成・文/上妻武夫>
連載「創価教育の源流」を学ぶ:
第1回 創価教育学を生み出した牧口常三郎の教育実践 [前編]
第2回 創価教育学を生み出した牧口常三郎の教育実践 [後編]
第3回 すべての女性に教育の機会を-大日本高等女学会を設立-
第4回 東京の小学校で取り組んだ牧口先生の教育実践
第5回 (近日公開)

しおはら・まさゆき●1953年、富山県生まれ。創価高校・創価大学2期生。創価大学大学院法学研究科修士課程修了。その後、創価大学職員として勤務。2000年11月、前身である創価教育研究センター事務長に就任。19年4月より現職。 



