第113回 正修止観章 73
[3]「2. 広く解す」71
(12)業相境①
十境の第四、業相境の段である。この段にも総釈と別釈の二段がある。
(1)総釈
総釈については、
第四に業相境を観ずとは、行人は無量劫より来(このかた)、作す所の善悪の諸業は、或いは已に報を受け、或いは未だ報を受けず。若し平平に心を運(めぐ)らせば、相は則ち現ぜず。今、止観を修するに、能く諸業を動かすが故に、善悪の相は現ず。疑う者の言わく、「大乗は平等なり、何の相か論ず可けん」と。今言わく、「爾らず。秖(た)だ平等の鏡の浄に由るが故に、諸業の像は現ず」と。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅳ)、近刊、頁未定、大正46、111c22~26)
と述べている。修行者が無量劫からずっと作ってきた善悪のさまざまな業は、ある場合はもう報を受けており、ある場合はまだ報を受けていない。もし平らで偏らずに心を運(めぐ)らすならば、業の様相は現われないとされる。しかし、今、止観を修行すると、さまざまな業を動かすことができるので、かえって業の善悪の様相が現われる。これは、平等の鏡の清浄さによるので、さまざまな業の姿が現われることにとたとえられている。
(2)別釈①
次に、別釈については、「業相を明かすに四と為す。一に相の発する因縁、二に正しく発する相、三に料簡、四に止観なり」(同前、112a2~3)とあるように、四段に分かれている。
①相の発する因縁
業の様相が生じる因縁に内の因縁と外の因縁がある。内の因縁とは、止観によって心を究めると、心はしだいに明るく清らかとなり、さまざまな善悪を照らすことをいう。無量の業の様相は、止観のなかに出、鏡が磨かれて、万像が自然と現われるようなものであるとたとえている。
外の因縁については、諸仏の慈悲は常に一切に応じるけれども、衆生に機が無い場合は、見ることができないが、止観の力によって諸仏を発動することができるので、善悪の禅を示すと、さまざまな業が現われることをいう。華鬘(花を連ねて首や身を飾る装飾品)を持って大勢の者に示すようなものであるとたとえている。
②正しく発する相
業の様相が生じることについて、まず善が生じる様相に六種があることを示している。第一に報果の様相が現われること、第二に習因の様相が現われること、第三に報果が前に現われ習因が後に現われること、第四に習因が前に現われ報果が後に現われること、第五に習因・報果が同時に現われること、第六に習因と報果が生じることの時間的前後が定まらないことである。実際にさまざまな業が現われる時は、たがいに入りまじり千差万別であるが、この六種の意味を知っておくと、認識に誤りがないといわれる。
ここに出る習因・習果(新訳では、同類因・等流果)については、毘曇師(アビダルマを研究する僧)は、習因が自分因(自己に所属する原因)であり、習果は習因に依る果であり、また習は重なり持続するという意味であり、自分の種子が次々と生じ、後念の心が生起して前念に重なり持続する(習続)場合、前念を因(習因)とし、後念を果(習果)とするとされる。これは善・悪・無記の三性に共通するが、成論師の場合は、無記については重なり持続しないという。
報因・報果(新訳では異熟因・異熟果)とは、これは異なる過去世・現在世・未来世についていうもので、前の習因・習果をすべて報因と名づけ、これは未来の果を引っ張るので、報因と名づけられるのである。後に地獄・餓鬼・畜生・人・天の五道の身を受けることは、報果とされる。今の果報の身の上について、さらに善・悪が重ねて持続することを起こす場合は、習因・習果を総体的に前世(過去世)と比較すると、この重なり持続することは果であり、もし後世(未来世)と比較すると、この重なり持続することは因であるとされる。
一例として、もし坐禅のなかでただ業のさまざまな様相を見れば、これを報果の様相が現われると名づけ、昔の因によるので、また報因ということもできるとされる。もし坐禅のなかで業のさまざまな様相を見なくても、盛んに心を起こすことは、未来の果を引っ張るから習因を生じることとされ、また昔の因に応えるから習果とも名づけるとされる。
善の業の様相は多様なので、ひとまず六度(六波羅蜜)に焦点をあわせて説くとしている。たとえば檀(布施)の様相が生じる場合については、もし坐禅のなかで突然、福田という勝れた境、三宝の形像、聖衆(聖者たち)・大徳(徳の高い僧)、父母・師僧(師匠の僧)、有行(立派な行為)の人が、自分の供養を受けるのを見たり、ある場合は悲田(貧者や病人などの憐れむべき者)が自分の供養を受けるのを見たり、ある場合は福田と悲田の二つの田が供養を受けないけれども、すべて歓喜するのを見たり、ある場合はさまざまな田が供養を受けることと受けないことを見ず、ただ布施する対象の用具が羅列し敷き満ちるのを見たりするなどの実例を取りあげている。
次に、戒の様相、忍辱の様相、精進の様相について簡潔に説いている。禅の様相については、後の禅境で説くといい、智慧の様相については後の菩薩境で説くといって、ここでは何も述べていない。もっとも実際には菩薩境が説かれないことはすでに述べた。
次に、悪の様相についても、さまざまな悪はとても多いので、ひとまず六蔽(慳心・破戒心・瞋恚心・懈怠心・乱心・癡心)に焦点をあわせて説くとしている。
たとえば、慳蔽の様相についての描写を紹介する。三宝・師僧・父母が、ある場合は姿形が憔悴したり、ある場合は裸の身となったり、ある場合はぼろの衣裳を着たり、ある場合は飢えて疲れたり、寺が荒れはてて寂かったりするのを見る。ある場合は一切の物がすべて守護され、密封され、閉塞させられるのを見る。これらは慳蔽の報果が生じる様相と名づけるとされる。
また、破戒の様相についてはやや詳しく紹介している。三宝の姿、師僧、目上の者や父母の首が切り離されて地面に落ちて上昇しないのを見る。ある場合は身体が破れ裂けて、鞭打たれ苦悩する。ある場合は身体と首が別の場所にあり、寺の僧の宿舎が落ちぶれるのを見る。ある場合は父母が罵り、三宝が呵責されるのを見る。ある場合は殺害を愛好する屠殺者がやって来て、その前に留まるのを見るなどの例を取りあげている。その他、淫行の罪の報果の様相、盗みの様相の果報、口の四つの過失(不妄語・不両舌・不悪口・不綺語)の報果の様相、飲酒の報果の様相などを紹介しているが、ここでは説明を省略する。
他の四つの蔽(瞋恚心・懈怠心・乱心・癡心)については、慳心・破戒心を例としてわかるであろうとして、紹介を省略している。
最後に、内心が苦痛することは、殺の習果であり、内心がひどく沈滞することは盗の習果であり、内心がうるさく騒がしいことは淫行の習果であり、これらがともに存在することは等分(貪・瞋・癡の三毒がいっしょに生起しているもの)の習果であると示されている。(この項、つづく)
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