第57回 正修止観章⑰
[3]「2. 広く解す」⑮
(9)十乗観法を明かす④
③不可思議境とは何か(2)
(2)三世間
法界の次に、三世間(※1)の説明が示される。冒頭には、次のような説明が示される。
十法界は通じて陰・入・界と称すれども、其の実は同じからず。三途は是れ有漏の悪の陰・界・入、三善は是れ有漏の善の陰・界・入、二乗は是れ無漏の陰・界・入、菩薩は是れ亦有漏亦無漏の陰・界・入、仏は是れ非有漏非無漏の陰・界・入なり。『釈論』に、「法の無上なる者は、涅槃是れなり」と云うは、即ち非有漏非無漏の法なり。『無量義経』に「仏は諸の大・陰・界・入無し」と云うは、前の九の陰・界・入無きなり。今有りと言うは、涅槃常住の陰・界・入有るなり。『大経』に云わく、「無常の色を滅するに因って、常の色を獲得す。受・想・行・識も亦復た是の如し」と。常楽重沓するは、即ち積聚の義にして、慈悲もて覆蓋するは、即ち陰の義なり。十種の陰・界は同じからざるを以ての故に、故(ことさら)に五陰世間と名づく。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、560-562頁)
ここでは、十法界について、共通に[五]陰・[十二]入・[十八]界と呼ぶが、その内実は異なるとしている。ここでは、説明として、五陰単独ではなく、十八界、十二入と並べて取りあげているが、説明を単純化するために、五陰のみを取りあげて説明することにする。地獄・餓鬼・畜生の三途は有漏(煩悩の汚れのあること)の悪の五陰であり、阿修羅・人・天の三善は有漏の善の五陰であり、二乗は無漏(煩悩の汚れのないこと)の五陰であり、菩薩は有漏でもあり無漏でもある(亦有漏亦無漏)五陰であり、仏は有漏でもなく無漏でもない(非有漏非無漏)五陰であると述べている。このように十種の五陰が異なるので、五陰世間と名づけるとある。
次に、衆生世間については、次のような説明が示される。
五陰を攬(と)りて通じて衆生と称するも、衆生は同じからず。三途の陰を攬れば罪苦の衆生、人天の陰を攬れば受楽の衆生、無漏の陰を攬れば真聖の衆生、慈悲の陰を攬れば大士の衆生、常住の陰を攬れば尊極の衆生なり。『大論』に云わく、「衆生の無上なる者は、仏是れなり」と。豈に凡下と同じからんや。『大経』に云わく、「歌羅邏(からら)の時、名字は異なる。乃至、老の時、名字は異なる。芽の時、名字は異なる。乃至、果の時、名字は亦た異なる」と。直ちに一期に約して、十時は差別す。況んや十界の衆生は、寧(いずく)んぞ異ならざることを得んや。故に衆生世間と名づくるなり。(『摩訶止観』(Ⅱ)、562頁)
五陰によって構成されるものが衆生である。地獄・餓鬼・畜生の三途の五陰を取り集めると罪や苦しみを受ける衆生を構成し、人天の五陰を取り集めると楽を受ける衆生(ここでは阿修羅が除かれている)を構成し、無漏の五陰を取り集めると真聖の衆生(二乗を指す)を構成し、慈悲の五陰を取り集めると大士の衆生(菩薩)を構成し、常住の五陰を取り集めると最も尊い衆生(仏)を構成するとされる。阿修羅は除かれているが、本当は入れるべきで、十法界の衆生の区別を説明したものである。これが衆生世間と呼ばれるのである。
次に、国土世間については、次のような説明が示される。
十種の居する所を、通じて国土世間と称するは、地獄は赤鉄(しゃくてつ)に依って住し、畜生は地・水・空に依って住し、修羅は海畔・海底に依って住し、人は地に依って住し、天は宮殿に依って住し、六度の菩薩は人に同じく地に依って住し、通教の菩薩の惑の未だ尽きざる者は人天に同じく依住し、惑を断じ尽くせる者は方便土に依って住し、別・円の菩薩の惑の未だ尽きざる者は人天・方便等に同じく住し、惑を断じ尽くせる者は実報土に依って住し、如来は常寂光土に依って住す。『仁王経』に云わく、「三賢・十聖は果報に住し、唯だ仏一人のみ浄土に居す」と。土土同じからざるが故に、国土世間と名づくるなり。此の三十種の世間は、悉ごとく心従り造る。(『摩訶止観』(Ⅱ)、562-564頁)
ここでは、十法界の衆生の居住する国土の区別について説明している。まず、地獄は赤く熱せられた鉄に依存して住み、畜生は大地・水・虚空に依存して住み、修羅は海のほとりや海底に依存して住み、人は大地に依存して住み、天は宮殿に依存して住むとある。ここには、餓鬼の居住する国土については言及されていないが、地獄より上で、畜生より下の世界のはずである。
次に菩薩の国土については、天台思想における蔵教・通教・別教・円教それぞれの菩薩の国土を区別して示している。六度の菩薩(蔵教の菩薩)は人と同じく大地に依存して住み、通教の菩薩は、惑をまだ断ち切っていない場合は人・天の依存する場所と同じ場所に依存して住み、惑を断ち切っている場合は方便有余土(ほうべんうよど)に依存して住み、別教・円教の菩薩は、惑をまだ断ち切っていない場合は人・天の依存する場所や方便有余土などと同じ場所に依存して住み、惑を断ち切っている場合は実報無障礙土(じっぽうむしょうげど)に依存して住み、如来は常寂光土(じょうじゃっこうど)に依存して住むと述べられている。住む土地がそれぞれ相違するので、これを国土世間と名づけているのである。
ここに見られる蔵教・通教・別教・円教の菩薩と仏の四種の国土については。主に『維摩経』巻上、仏国品に対する注釈である『維摩経文疏』巻第一において集中的に議論されている。たとえば、「第二に別して仏国を明かすとは、諸仏は縁に随って物を利す。差別の相は、無量無辺なり。今、略して四種の分別を作す。一には染浄国(ぜんじょうこく)、即ち凡聖(ぼんしょう)共に居するなり。二には有余国、即ち方便の行人の住する所なり。三には果報国、純(もっぱ)ら法身大士の居する所なり。即ち因陀羅網(いんだらもう)無障礙土なり。四には常寂光土、即ち究竟妙覚の居する所の処なり」(『新纂大日本続蔵経』18、465下22~466上2)以下に詳しく説明がある。「染浄国、即ち凡聖共に居するなり」とあるのは、凡聖同居土(どうごど)の穢土(たとえば娑婆世界)と浄土(たとえば阿弥陀仏の極楽世界)を意味する。
引用文の最後に、この三十種の世間(十法界と三世間を乗ずるので三十種となる)はすべて心から造られると結論的に述べている。(この項、つづく)
(注釈)
※1 三世間の出典は、『大智度論』巻第四十七の「能く一切世間の三昧を照らす者は是の三昧を得るが故に、能く三種の世間を照らす。衆生世間、住処世間、五衆世間なり」(大正25、402上22~24)を参照。また、同、巻第七十、「世間に三種有り。一には五衆世間、二には衆生世間、三には国土世間なり」(同前、546中29~下2)を参照。この「世間」は、不同相違を意味する。『観音玄義』には、「三世間」の説明のなかで、「隔別不同(きゃくべつふどう)なるが故に、名づけて世と為すなり。間は是れ間差(けんしゃ)なり。三十種の世間は差別して相い謬乱せざるが故に、名づけて間と為す」(大正34、884上20~21)とある。「隔別不同」は、隔たっていて相違するものという意味であり、「間差」は、隔たり食いちがっているという意味である。
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