『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第35回 方便⑥

[3]具五縁について④

(4)懺浄を明かす②

②事懺の逆流の十心

 前項では、煩悩、業、苦が連鎖し、ついに一闡提(いっせんだい)にいたるまでを明かしている。この順流の十心を対治して悪法を除くものが逆流(罪の流れに逆らうこと)の十心である。順流の十心は、事懺(じせん)と理懺(りせん)に共通であり、逆流の十心については、事懺と理懺のそれぞれについて別立てで説明されている。
 第一は、仏法の因果を信ずることによって、一闡提の心を破ることである。第二は、自分で自分を恥じ、天に恥じ、他人に恥じることによって、慚愧(ざんき)のない心を破ることである。第三は、悪道を恐れることによって、悪道を恐れない心を破ることである。第四は、自分の罪を隠蔽しないことによって、罪を覆い隠そうとする心を破ることである。第五は、連続して悪をなす心を断ち切ることによって、常に悪事を思う心を破ることである。第六は、菩提心を生ずることによって、すべての場所に広く行きわたって、悪を起こす心を破ることである。第七は、功徳を修めて過失を補うことによって、身口意の三業を放縦にする心を破ることである。第八は、正法を守護することによって、随喜(他人の幸せを喜ぶこと)のない心を破ることである。第九は、十方(四方、四維、上下の方向)の仏を念ずることによって、悪友に従う心を破ることである。第十は、罪の本性が空であることを観察することによって、無明(むみょう)の暗闇を破ることである。
 以上の結びとして、

 是れ十種の懺悔と為す。涅槃の道に順じ、生死の流れに逆らいて、能く四重・五逆の過を滅す。若し此の十心を解せずば、全く是非を識らず。云何んが懺悔せん。設い道場に入るも、徒(いたず)らに苦行を為して、終に大益無し。『涅槃』に、「若し勤めて苦行を修せば、是れ大涅槃の近き因縁なりと言わば、是の処(ことわり)有ること無し」と云うは、即ち此の意なり。是れ事の中の重罪を懺悔すと名づくるなり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、424頁)

と述べている。以上の十の懺悔によって、涅槃の道にしたがい、生死の流れに逆らい、四重(四波羅夷罪のこと。殺生・偸盗・邪婬・妄語の四重罪[教団追放の処罰を受ける]を指す)・五逆(母を殺す・父を殺す・阿羅漢を殺す・仏の身より血を出す・和合僧を破ることで、無間地獄に堕ちるとされる)の過失を消滅させることができる。もしこの十心を理解しなければ、ほんとうに是非を知らないので、懺悔することはできない。たとい道場に入っても、無駄に苦行をして、とうとう大きな利益はないのである。これを事のなかの重罪を懺悔すると名づけるのであると述べている。

③理懺の逆流の十心

 以上の事懺は、鈍使(貪・瞋・癡・慢・疑の遅鈍な煩悩)の罪に対する懺悔である。これに対して、利使(有身見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見の猛利な煩悩)の罪に対する懺悔である理懺が説かれている。理懺の説明には、順流の十心は出ないが、先に述べた順流の十心は、衆生の迷いの現実を示したものであり、事懺と理懺の前提として共通のものである。そのうえに立って、理懺の逆流の十心の説明がなされるのであるが、その項目は、事懺の逆流の十心と基本的に同じである。ただし、内容的には、先にも述べたように、事懺は五鈍使を対象とし、理懺は五利使を対象としているという相違がある。
 以上を結論づけて、「此の十懺を運ぶ時、深く三諦を観じ、又た事法を加え、殷重の心を以て、身命を惜しまざるを、第二の健児と名づく」(『摩訶止観』(Ⅱ)、434頁)と述べている。つまり、この十の理懺を働かせ用いるときは、深く三諦を観察し、さらに事法(事懺)を加え、懇切丁寧な心によって、身命を惜しまないことを、第二の健児と名づけると述べている。
 引用文中の「第二の健児」については、『南本涅槃経』巻第十七、梵行品に、「大王よ、且(しば)らく聴け。臣は仏説を聞くに、智者に二有り。一には諸悪を造らず、二には作り已りて懺悔す。愚者も亦た二あり。一には罪を作り、二には覆蔵す。先に悪を作ると雖も、後に能く発露し、悔い已りて慚愧し、更に敢えて作らず。猶お濁水は之れに明珠を置かば、珠の威力を以て、水は即ち為めに清(す)む。烟雲は除かるれば、月は則ち清明たるが如し。悪を作りて能く悔い、亦復た是の如し。王は若し懺悔して慚愧を懐かば、罪は即ち除滅し、清浄は本の如し」(大正12、720下1~7)とある。ここに出る智者の第二の、つまり罪を作るが、懺悔する者が「健児」に該当する。

④事・理の両懺を結成す

 これまで、事懺と理懺を説明してきたが、この段落の「懺浄」の結びとして、

 是れ事・理の両懺と名づく。障道の罪は滅し、尸羅(しら)は清浄ならば、三昧は現前し、止観は開発(かいほつ)す。事戒は浄きが故に、根本三昧は現前し、世智・他心智は開発す。無生の戒は浄きが故に、真諦三昧は現前し、一切智は開発す。即仮の戒は浄きが故に、俗諦三昧は現前し、道種智は開発す。即中の戒は浄きが故に、王三昧は現前し、一切種智は開発す。此の三諦の三昧を得るが故に、王三昧と名づけ、一切の三昧は、悉ごとく其の中に入る。又た、能く一切の諸定を出生して、具足せざること無きが故に、名づけて止と為し、又た能く一切の諸智を具足するが故に、名づけて観と為す。故に知んぬ、持戒清浄、懇側(こんそく)の懺悔は、倶に止観の初縁と為す。意は此に在るなり。(『摩訶止観』(Ⅱ)、434~435頁)

と述べている。事懺と理懺によって、覚りを妨げる罪が消滅し、戒を持つことが清浄となるならば、三昧が現われ、止観が開かれる。事戒が清浄になると、根本三昧が現われ、世智・他心智が開かれる。無生の戒(即空の戒)が清浄になると、真諦三昧が現われ、一切智が開かれる。即仮の戒が清浄になると、俗諦三昧が現われ、道種智が開かれる。即中の戒が清浄になると、王三昧が現われ、一切種智が開かれる。さらに、すべての禅定を出生することができてすべて完備するので止と名づけ、すべての智慧を完備するので観と名づける。そして、戒を清浄に持つことと懇切な懺悔は、ともに止観の最初の条件であるとされるのである。
 この持戒清浄の解説は他にくらべてとても詳しい。これについて、安藤俊雄氏は「これは智顗(ちぎ)が当時の堕落した教団の粛正のために持戒を特に重視したからである」(※1)と述べている。

(注釈)
※1 安藤俊雄『天台学』(平楽寺書店、1968年)210頁。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。