『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第13回 修大行(2)

[1]四種三昧②

非行非坐三昧②

 前回は、非行非坐三昧についての説明の途中で終わった。非行非坐三昧は、諸の経に約す・諸の善に約す・諸の悪に約す・諸の無記(善でも悪でもない性質のもの)に約すという四段落から成る。今回は、後の三段である善・悪・無記の三性の日常心を対境として止観を行ずる段について説明する。智顗(ちぎ)は、かなりの紙数を割いて、この段を説明しているが、議論が複雑で難解な点も多い。

①善に焦点をあわせる

 この段は、第一に四運についての説明、第二に善事を経歴することに分かれる。

(1)四運推検
 四運(四運心)とは、詳しくは四運推検といわれるものである。まず、心を四種の様相、つまり未念・欲念・念・念已(ねんい)に分ける。「未念」はまだ思念していないこと、「欲念」は思念しようとすること、「念」は思念しつつあること、「念已」は思念したことを指す。つまり、心の念は時間的な流れの過程で、四種の様態を取るものであることを指摘している。ここでは、心の働きの主要なものである念=思念することを取りあげるので、念の文字を使うが、たとえば眼根が色境を見る場合には、未見・欲見・見・見已の四種の様相に分けられる。
 運(運心)は、心をめぐらす、働かせることを意味するので、心の四種の様相を指す。推検は、推しはかり考えることを意味する。心の四種の様相を、さまざまな視点から推しはかり考えて、すべてが空であることを認識することをいう。空であることが強調されているが、智顗の最終的な立場では、空・仮・中の三諦円融であることに帰着すると思われる。
 具体的な内容としては、未念はまだ起こらず、已念(念已)は過ぎ去ったものであるから、この二つには心がなく、心の様相もないのであるから、観察の対象とすることができないのではないかという質問が取りあげられている。また、過去はすでに去り、未来はまだ至らず、現在は留まらないのであり、もしこのように三世を離れるならば、別の心はなく、どのような心を観察するのかという質問が取りあげられている。いずれの質問に対しても、心を観察すること(止観の実践)は可能であると答えている。
 要するに、この四運推検は、次項で説明する六波羅蜜という善事をきっかけに非行非坐三昧を実践するばかりでなく、悪、無記をきっかけに非行非坐三昧を実践する場合おいても、自らの心を空であると認識する基礎的な方法として一貫して用いられる重要な方法である。

(2)善事を経歴する
 善事、善い事柄をきっかけとして非行非坐三昧を行なうことを説明する段である。善事の代表として、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若の六種の修行の完成)を取りあげている。六波羅蜜の実践によって、非行非坐三昧を行なうのである。そして、その六波羅蜜が六波羅蜜として成立するためには、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意の六種の感覚・知覚機能)が六境(色・声・香・味・触・法の六種の対象)に接触して生じる「六受」(眼触受・耳触受・鼻触受・舌触受・身触受・意触受)を捨て、「六作(ろくさ)」(行・住・坐・臥・語黙・作作[仕事の意])を働かせることが必要となると説かれる(六受と六作を合わせて十二事という)。
 最初に、眼根が色境を見る場合の四運心である未見・欲見・見・見已がいずれも空であり、色を見る心も空であることを示している。また、意根が法境を認識する場合の四運心である未縁・欲縁・縁・縁已がいずれも空であり、法を認識する心も空であることを示している。「縁」は、対象を認識することを意味する。ここには、眼根が色境に触れて生じる受(苦受・楽受・不苦不楽受の三種の感受)、意根が法境に接触して生じる受を捨てることが示唆されている。中間の耳・鼻・舌・身の四根が声・香・味・触の四境に触れて生じる受については省略されているが、趣旨として六受を捨てることが説かれていると理解できる。
 しかし、実際には、六受を捨てることはなかなか難しいので、迷いから覚りまで、つまり地獄から仏(通教・別教・円教の仏)までの四運心が例示されている。たとえば、地獄の四運心については、

 因縁和合して眼識を生じ、眼識の因縁は意識を生じ、意識生ずる時、即ち能く分別す。意識に依れば、則ち眼識有り。眼識は能く見、見已りて貪を生ず。色に貪染して、受くる所の戒を毀(やぶ)る。此れは是れ地獄の四運なり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)、180頁)

とある。眼根が色を見た後に貪(むさぼ)りを生じ、色を貪りふけって、受けた戒を破ることが地獄の四運とされている。
 その後、自己の誤った四運心の様相について、今、引用した地獄から二乗の四運心まで簡潔に説いている。そして、菩薩の四運心については、自己の誤った四運心と同様に、他者の四運心も同様に誤っているので、慈悲を起こして六度(六波羅蜜)を修行することを勧めている。例としては、布施波羅蜜を取りあげている。つまり、六塵(六境)の性質・様相は、無量劫の昔から頑愚に執著して捨てることができず、捨ててもなくすことができない。今、塵(境)は塵でないと観察すると、塵に対して感受がなく、根も根でないと観察すると、自己に対して執著することなく、人は実体として捉えることが難しいと観察して、また感受する者がなく、施者・受者・施物の三つの事柄がすべて空であること(三輪清浄という)を檀(布施)波羅蜜と名づけると説明している。
 次に、「六作」(行・住・坐・臥・語黙・作作)によって、檀(布施)を修行することを取りあげている。まず、六作のなかで、代表として、行(歩むこと)を取りあげている。行について、未念行・欲行・行・行已に分けて、いずれも空であり、空であると覚知する心も空であることを説いている。しかし、空の認識を徹底することは難しいので、地獄から菩薩まで(蔵教の菩薩、通教の菩薩、別教の菩薩)の空の理解の差異が説かれる。この論理は、布施波羅蜜以外の他の五波羅蜜にも適用されている。
 さらに、六作のなかの行ばかりでなく、その他の五作(住・坐・臥・語黙・作作)について、六波羅蜜を実践することが説かれ、これによって非行非坐三昧を成就するのである。(この項つづく)

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。