第10回 発大心(4)
[5]六即①
五略の第一発大心のなかの「是(ぜ)を顕わす」(顕是)のなかの四諦、四弘誓願(しぐぜいがん)については説明した。今回は、六即(理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即)について説明する。
これは、智顗(ちぎ)が創唱した円教の行位である。湛然(たんねん)『止観大意』には、この六即について「即なるが故に、初後は倶に是なり。六なるが故に、初後は濫(らん)ぜず。理は同じきが故に即にして、事は異なるが故に六なり」(大正46、459下4~5)とわかりやすく要所を押さえた説明をしている。行位を六段階に分けても、すべて同一の真理を証得するので「即」といい、その平等性の上に立って、真理を証得することに浅深の差異があるので「六」というものである。つまり「即」は同一の理を証得するという平等性を意味し、「六」は具体的な位の差異を意味している。
では、『摩訶止観』の本文に即して六即の説明をする。
六即に約して是を顕わすとは、初心は是なりと為すや、後心は是なりと為すや。答う。「論」の焦炷(しょうちゅう)の如し。初に非ずして初を離れず、後に非ずして後を離れず。若し智信は具足して、一念は即ち是なるを聞かば、信の故に謗(そし)らず、智の故に懼(おそ)れず、初後は皆な是なり。若し信無くば、高く聖境(しょうきょう)に推(お)して、己(おの)が智分(ちぶん)に非ず。若し智無くば、増上慢を起こし、己れは仏に均(ひと)しと謂う。初後は倶に非なり。此の事の為めの故に、須(すべか)らく六即を知る可し。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)112頁)
菩提心を発するという行為は、発する最初から、菩提を成就する、すなわち成仏するまで一貫して行わなければならない。つまり、理即から究竟即(くきょうそく)までの六即それぞれにおいて発菩提心がなくてはならない。結論を先取りして述べたが、菩提心を発して修行していく過程において初心が正しい(是)のか、後心が正しいのかという質問が提示される。これに対して、信と智があれば、初心から後心まで通じて正しいといっている。ところが、信がなければ自分を卑下し、智がなければ増上慢を起こしてしまう。そこで、六即を知る必要がある。つまり、修行者にとっては、「即」の故に自己を卑下する必要がなく、「六」の故に増上慢に陥ることをいましめるという効果があるのである。
理即
理即については、
理即とは、一念の心は即ち如来蔵の理なり。如の故に即ち空、蔵の故に即ち仮、理の故に即ち中なり。三智は、一心の中に具して、不可思議なり。上に説くが如し。三諦一諦、三に非ず一に非ず。一色一香に一切の法を具す。一切の心も亦復た是の如し。是れ理即の是(ぜ)の菩提心と名づく。亦た是れ理即の止観なり。即ち寂を止と名づけ、即ち照を観と名づく。(『摩訶止観』(Ⅰ)112頁)
とある。一念の心(一瞬の心)がそのまま如来蔵(如来の胎児の意味で、仏性と意味が通じる)の理であり、如来蔵の理は三諦(空諦・仮諦・中諦)を備え、三諦を認識する三智(一切智・道種智・一切種智)は一念の心に備わっている。
つまり、原理として、一切衆生は三諦、三智を本来備えていることを理即といっている。大乗の『涅槃経』(南本)には、「一切衆生に悉(こと)ごとく仏性有り」(大正12、646上19など)という有名な文があるが、これは衆生はまだ成仏していないが、原理的には仏と平等であることを示したものである。理即も原理的には究竟即(後述)=妙覚=仏の境地と同じであることを意味している。(この項、つづく)
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