第92回 正修止観章 52
[3]「2. 広く解す」㊿
(9)十乗観法を明かす㊴
⑧道品を修す(2)
(3)問答
次に、いくつかの問答が示されている。はじめに、道品は二乗の法であって、菩薩の道ではないのではないかという質問が提起される。これに対して、『大智度論』がこのような考えを批判している(※1)ことを述べ、さらに、『維摩経』、『涅槃経』、『大集経』を引用して、『大智度論』の解釈を補強し、道品が小乗の法だけであるとする考えを否定している。
次に、道品は助道か正道かという問題が提起され、どちらの立場もあると答えている。
次に、道品は有漏か無漏かという問題が提起される。つまり、もし三十七道品が有漏であるといえば、どうして七覚は修道(無漏と規定される)であるというのか。一方、『法華経』には、「無漏の根・力・覚・道の財なり」(※2)とある。ここには、五根・五力・七覚支・八正道に無漏という形容語が付けられているので、道品が有漏であるという考えと一致しない。また、『法華経』には、「覚・道」という順序に並べられているので、八正道が七覚の前にあること(後述する『阿毘曇毘婆沙論』の説に当たる)を否定している。
この問題に対して、第一に三十七道品は、すべて有漏であり、第二にすべて無漏であり、第三に有漏でもあり無漏でもあるという三つの立場を区別して理解すべきであることが示されている。
第一の有漏である立場については、『大智度論』の「八正道を修すれば、初めの善有漏の五陰を得」(※3)を引用している。ここに出る「善有漏の五陰」については煖法(内凡の位である四善根の第一)であると述べている。この煖法の前に、八正道を修行することができると述べ、八正道を修行する方法について、次のように説いている。最初に師にしたがって八正道の法を受け、心を繋ぎ止めて忘れないことを、念処と名づける。さらに、八正道の法を求めるために、熱心に修行することを、正勤と名づける。一心のなかで修行することを、如意足と名づける。信根・精進根・念根・定根・慧根の五善根が生じることを、根と名づける。根が成長することを、力と名づける。道(覚り)の作用を区別することを、七覚と名づける。安穏な道(覚り)のなかで修行することを、八正道と名づける。このようにして八正道を修行することができれば、善有漏の五陰を得るのとされる。以上が道品はすべて有漏であるという立場の説明である。
次に、道品がすべて無漏である立場については、見道・修道で行なう道品はまったく無漏であると述べている。これは、すでに引用した『法華経』の「無漏の根・力・覚・道の財なり」の意味と一致するといわれる。
次に、道品がすべて有漏でもあり無漏でもある立場については、『阿毘曇毘婆沙論』の「若し八正は七覚の後に在らば、亦た是れ有漏なることを得、亦た是れ無漏なることを得」(※4)を引用している。その理由については、『摩訶止観』には、「八正に依って見諦に入るは、即ち是れ亦た無漏なり。若し八正は七覚の前に在らば、一向に是れ無漏なり」(大正46、88b9~10)とある。理解しにくいが、『講義』の注釈を参考にすると、八正道によって、見道に入れば、すべての道品は無漏であり、もし見道に入らなければ、すべての道品は有漏となる。また、八正道が七覚の後にあれば、無漏の七覚の後の八正道も無漏であるが、八正道が七覚の前にあれば、この場合の八正道は有漏か無漏か不定であると考えられる、というものである。よくわからないが、『阿毘曇毘婆沙論』の引用によって、道品がすべて有漏でもあり無漏でもあるという第三の立場を示していることになっている。
(注釈)
※1 『大智度論』巻第十九、「問うて曰わく、三十七品は是れ声聞・辟支仏の道にして、六波羅蜜は是れ菩薩摩訶薩の道なり。何を以ての故に菩薩道の中に於いて声聞法を説くや。答えて曰わく、菩薩摩訶薩は応に一切善法・一切道を学ぶべし。仏の須菩提に告ぐるが如し、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じ、悉ごとく一切善法・一切道を学ぶ。謂う所は乾慧地、乃至仏地なり。是の九地は応に学びて証を取らず、仏地も亦た学び亦た証す。復た次に、何処に三十七品は但だ是れ声聞・辟支仏の法にして、菩薩道に非ずと説くや。是れ『般若波羅蜜』摩訶衍品の中に、仏は四念処、乃至、八聖道分は是れ摩訶衍なりと説く。三蔵の中にも亦た三十七品は独り是れ小乗の法なりと説かず」(大正25、197中21~下2)を参照。
※2 『法華経』の原文は、譬喩品、「汝等は当に知るべし、此の三乗の法は、皆な是れ聖の称歎する所なり。自在無繫にして、依求する所無し。是の三乗に乗ぜば、無漏の根・力・覚・道・禅定・解脱・三昧等を以て、自ら娛楽して、便ち無量の安隠快楽を得ん」(大正9、13中15~18)を参照。
※3 『大智度論』の原文は、巻第二十二、「四諦の中に於いて、心を摂して散ぜず、色・無色定の中に向かわしめず、一心に涅槃に向かうを、是れ正定と名づく。是れ初めに善有漏を得るを、名づけて煖法・頂法・忍法の中の義と為す」(大正25、226中9~11)を参照。
※4 『阿毘曇毘婆沙論』の原文は、巻第四十八、智犍度八道品、「此の阿毘曇の中に、是の決定の相有り。若し覚支の後に道支を説かば、当に知るべし、道支は一向に無漏なり。若し道支の後に覚支を説かば、当に知るべし、道支は是れ有漏・無漏なり。此の中、道支の後に覚支を説くが故に、当に知るべし、道支は是れ有漏・無漏なり。或いは正見有りて、択法覚支に非ず。乃至、広く四句を作す。是れ正見にして択法覚支に非ずとは、世俗の正見是れなり。所以は何ん。覚支は一向に是れ無漏なるが故なり。是れ択法覚支にして正見に非ずとは、尽智・無生智是れなり。所以は何ん。彼に見相無きが故なり。是れ正見にして、亦た是れ択法覚支なりとは、尽智・無生智を除いて、諸余の無漏慧是れなり」(大正28、362下11~19)を参照。
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