『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第83回 正修止観章㊸

[3]「2. 広く解す」㊶

(9)十乗観法を明かす㉚

 ⑥破法遍(11)

 (4)従空入仮の破法遍③

 ③入仮の観(3)

 (c)病に応じて薬を授く

 病に応じて薬を授ける段では、薬に世間の薬と出世間の薬を分けている。前者については、

 若し衆生に出世の機無く、根性は薄弱にして、深化に堪えずば、但だ世の薬を授くるのみ。孔丘(こうきゅう)・姫旦(きたん)の如きは、君臣を制し父子を定む。故に上を敬し下を愛して、世間は大いに治まる。礼律・節度ありて、尊卑に序有り。此れは戒を扶(たす)くるなり。楽(がく)は以て心を和し、風(ふう)を移し俗を易(か)う。此れは定を扶く。先王の至徳・要道、此れは慧を扶く。元古(がんこ)は混沌として、未だ出世に宜しからず、辺表の根性は、仏の興ることを感ぜず。我れは三聖を遣(つか)わして、彼の真丹(しんたん)を化せしむ。礼義は前に開き、大小乗の経は、然して後に信ず可し。真丹は既に然れば、十方も亦た爾り。故に前に世法を用て、之れに授与す、云云。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、78中28~下8)

と述べている。世間の薬として、具体的に中国の思想に言及している。結果として、中国の伝統思想に対する仏教の捉え方が見て取ることができて、興味深い内容となっている。孔子や周公旦(周の武王の弟で、周の建国の功臣の一人)は、君臣、父子の関係を定めたので、上を敬い下を愛して、世間は大いに治まり、礼儀刑罰、規則があって、身分の上下に秩序がもたらされた。これは戒を助けることとされる。次に、音楽は心を調和させ、風俗を改める働きがあるが、これは禅定を助けることとされる。次に、先王の最高の徳、重要な道は、智慧を助けることとされる。世俗の教えが仏教の戒定慧の三学を助けることを指摘したものである。
 次に、大昔は混沌としていて、まだ仏が世間に出現するのにふさわしくなく、中国のような辺境の衆生の能力・性質は、仏の出現を発動しない。釈尊は、孔子・顔回・老子の三聖を派遣して、その真丹(中国。Cīna-sthānaの音写語。震旦、振旦とも音写する)を教化させると述べられる。
 この話は、『清浄法行経』に出ている。この経は長く失われていたが、日本の名古屋の七寺(ななつでら)から発見され、翻刻された。そのなかに、「吾れは今先に弟子の三聖を遣(や)る。悉ごとく是れ菩薩、善権(ぜんごん)に示現す。摩訶迦葉は、彼(かしこ)にて老子と称す。光浄童子は、彼にて仲尼(ちゅうじ)と名づく。月明儒童(がつみょうじゅどう)は、彼にて顔淵(がんえん)と号す。故に吾が法化を宣(の)ぶ。老子の『道徳』、孔子の『孝経』は、文各おの五千あり。孔・顔の二賢は、以て師諮(しし)と為し、共相(たがい)に講論を発起し、五たび詩・伝・易・礼、威儀法則に往きて、以て漸く遊化し、彼の人民をして普く法味を服せしむ。然るに、彼の仏経は常に真丹に往く」(『七寺古逸経典研究叢書第二巻中国撰述経典(其之二)』、大東出版社、1996年、13頁)とある。
 摩訶迦葉が老子、光浄童子が孔子、月明儒童が顔淵(顔回)にそれぞれなり(※1)、中国の教化を釈尊に託されたとする内容である。もちろんこの経典は中国撰述経典(疑経)である。老子が仏となってインドの民族を教化したという説(老子化胡説)が道教側から主張されたので、それに対抗するために仏教側が三聖派遣説を展開したものと推定される。
 末尾に、中国の礼が先に開かれて後に、大小乗の経が信じられるようになる(※2)こと、真丹がそうである以上、十方も同様であるので、先に世間の法を世間の人に授与すると述べられている。
 次に、出世間の薬については、衆生の能力・性質に下根・中根・上根・上上根の四種の相違があり、それに応じて薬にも相違があるとされる。これら四種の根に対して、蔵教(因縁所生の薬)・通教(即空の薬)・別教(即仮の薬)・円教(即中の薬)の薬をそれぞれ与えること、また、それぞれの教に四門(有門・空門・亦有亦空門・非有非空門)の区別があることが説かれているが、説明は省略する。

(注釈)
※1 三聖については、『止観輔行伝弘決』巻第六には、「『清浄法行経』に云わく、『月光菩薩は彼(かしこ)にて顏回と称し、光浄菩薩は彼にて仲尼と称し、迦葉菩薩は彼にて老子と称す』と」(大正46、343下18~20)とあり、月光菩薩、光浄菩薩、迦葉菩薩としている。
※2 この記述については、『止観輔行伝弘決』巻第六の「礼楽前に駆(か)りて(駆[は]せて)真道後に啓く」(同前、343下15~16)の方が有名かもしれない。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。