『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第37回 方便⑧

[3]具五縁について⑥

「閑居静処」について

 具五縁の第三の「閑居静処(げんごじょうしょ)」(静かな場所に心静かに住むこと)について紹介する。四種三昧のなかの随自意三昧(非行非坐三昧)は、修行の場所を選ばないが、他の三種の三昧(常行三昧・常坐三昧・半行半坐三昧)は適当な場所を選ぶ必要がある。この適当な場所に、深山幽谷(しんざんゆうこく)、頭陀行(ずだぎょう)を行なう場所、僧院の三種があり、上から順に優れているとされる。『摩訶止観』巻第四下には、

 深山遠谷(おんごく)の若(ごと)きは、途路(ずろ)は艱険(かんけん)にして、永く人の蹤(あと)を絶す。誰か相い悩乱せん。意を恣(ほしいまま)にして禅観し、念念に道に在り、毀誉(きよ)は起こらず。是の処は最も勝る。二に頭陀抖擻(ずだとそう)は、極めて近きも三里、交往すること亦た疎(うと)く、煩悩を覚策す。是の処を次と為す。三に蘭若(らんにゃ)・伽藍(がらん)は、閑静(げんじょう)の寺なり。独り一房に処して、事物に干(あずか)らず、門を閉じて静坐し、正しく諦(あき)らかに思惟す。是の処を下と為す。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、444頁)

とある。第一の深山幽谷は、道が険しく人跡を絶する所なので、誰にも修行が邪魔されず、自分の思いのままに禅観の修行を行ない、他人から貶(けな)されることも褒められることもないので、最も優れた場所であるとされる。第二に頭陀(dhūtaの音写。抖擻と漢訳される。衣食住に関する貪りを払い除く修行)を行なう場所である。人里から少なくとも三里(中国の周尺では、一里は400メートル)離れ、他人との交流往来が少ない場所であり、二番目に優れた場所であるとされる。第三の阿蘭若(araṇyaの音写語)・僧伽藍(saṃgha-ārāmaの音写語)は、ここではどちらも閑静な寺を指している。この場所では、相部屋ではなく、一人で一部屋にいて修行に専念できるので、三番目に優れた場所であるとされる。
 智顗(ちぎ)はこの三つの場所以外については固く禁じている。たとえば在家信者の食堂や村は、過失を招き恥をもたらす場所であり、市の傍らの騒がしい寺も適当な場所ではないと注意を呼びかけている。
 次に、この場所についての観心釈がなされている。冒頭に「観心の処とは、諦理是れなり」(『摩訶止観』(Ⅱ)、445頁)とあり、三諦の理を取りあげている。上に述べた三段階の場所についてあてはめて、上級の深山は中道の法(中諦)とされる。深山閑静という漢字について、観心釈の立場から、人・天・声聞・縁覚・蔵教菩薩・通教菩薩・別教菩薩の七種の方便が人跡を絶して誰も到らないことを「深」と名づけ、高く広くて動かないことを「山」と名づけ、二辺(二つの極端)から遠く離れることを「静」と呼び、生じもせず起こりもしないことをを「閑」と呼ぶと説明している。
 中級の頭陀を行なう場所は出仮(仮に出ること。仮に入るとも表現される)の観(仮観)とされる。出仮の観は心を俗諦に安んじて、薬と病を区別し、無知惑(塵沙惑)を払い落とし、道種智を浄化することと説明されている。
 下級の閑静な寺の一部屋は従仮入空観(空観)とされている。寺はもともと騒がしいが、一つの部屋に安らかで静かにいることができる。
 そして、結論として、「三諦の理に安んずるは、是れ止観の処なり。実に影を山林に遁(のが)れ、隠密の室を房とするに不(あら)ず、云云」(『摩訶止観』(Ⅱ)、446頁)と述べている。三諦の理に安んじることが、止観の場所であり、実際に姿を山林に隠したり、秘密の部屋を家とする必要がないことを指摘している。
 つまり、場所に関しては、現実的な三段階の選択基準を示しながら、究極的には、三諦の理を観察できることが、観心の立場からの良い場所の選択と規定されているのである。

「息諸縁務」について

 次に、具五縁の第四の息諸縁務(さまざまな世俗の務めを止めること)について考察する。縁務はもともと禅をひどく妨げるので、これを捨てる必要がある。緣務には、第一に生活、第二に人事、第三に技能、第四に学問の四種がある。
 第一に生活の縁務とは、生活上のさまざまな務めをすることであり、すべての道において紛糾し、一を得て一を失い、道を失って心を乱すことであると説明される。
 第二に人事(人の行なう事柄)は、慶弔などの活動や訪問・招聘などの交際である。そもそも親に背き、師から離れることは、もともと重要な道理を求めるからであるのに、このような交際はふさわしくないと説明される。
 第三に技能は、医術・占い・泥塑刻木(でいそこくぼく)・塡彩描画(てんさいびょうが)・囲碁・書法・呪術などのことである。出世間の道を修行しているのにふさわしくないと説明される。
 第四に学問は、経論について議論し、勝ちを求めることである。理解や記憶に努めれば、心は疲れ気持ちは物憂くなり、議論をやり取りすれば、大事なものを失うので、止観を修行する時間的余裕がないと批判される。
 そして、学問でさえ捨てなければならないのであるから、まして前の三つの雑務(生活、人事、技能)はなおさら捨てなければならないと示唆されるのである。
 さらに、これら四つの縁務にも観心釈がなされている。
 生活の観心釈によれば、生活は愛(渇愛)である。愛は業を養うものであり、愛によって憂いがあり、憂いによって恐怖があると説かれる。これは、渇愛(パーリ語でタンハーという)から憂いと恐怖が生じるという原始仏典と同じ思想である(※1)。もし愛着を断ち切ることができれば、生活の縁務を止めると名づけるのである。
 人事の観心釈によれば、人事は業であり、業によって三界に生じ五道(地獄・餓鬼・畜生・人・天の生存領域)を行き来する。この業は愛によって潤される。業を作らなければ、生死輪廻は断ち切られると説明される。
 技術の観心釈によれば、技術は神通であるが、まだ聖道を得ない段階では、神通を修めることができない。大空のような般若を得れば、如意珠を得るようなものであり、もはや神通を用いる必要はないと説明される。
 学問の観心釈によれば。習学とは世智辨聡(世俗についてのさかしらで、仏法を聞くことのできない八難の一つ)と解釈される。いわば世俗の学問のレベルに留まってはならないと言われているのである。もし世間の生滅の法の様相を知ることができるようになれば、一切種智によって知り、仏眼によって見るのであると説明されている。

(注釈)
※1 「妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生ずる、妄執から離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか」(中村元訳『真理のことば 感興のことば』岩波書店、40頁)を参照。ここで「妄執」と訳されている言葉の言語は、taṇhāで、愛、渇愛とも訳される言葉である。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。