『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第16回 釈名(1)

 前回までで、十広の第一章「大意」(発大心・修大行・感大果・裂大網・帰大処の五略)の説明が終わった。今回は、『摩訶止観』巻第三上から始まる、十広の第二章「釈名(しゃくみょう)」の章を紹介する。この章は、相待(そうだい)止観、絶待(ぜつだい)止観、会異(えい。多くの経典に説かれる止観の別名についての説明)、三徳に通ず(止観と法身・般若・解脱の三徳との関係の説明)の四段に分かれる。

[1]相待止観①

 初めに相待止観について説いている。止と観を相対させ、止の三義と観の三義について説明している。

(1)止の三義

 『摩訶止観』には、止の三義について、次のように説明している。

 止観に各おの三義あり。息(そく)の義、停(じょう)の義、不止に対する止の義なり。息の義とは、諸の悪覚観、妄念・思想は、寂然(じゃくねん)として休息す。(中略)此れは所破に就いて名を得るにして、是れ止息の義なり。
 停の義は、心の諦理を縁じて、念を現前に繋(か)け、停住(じょうじゅう)して動ぜず。(中略)此れは能止(のうし)に就いて名を得るにして、即ち是れ停止(じょうじ)の義なり。
 不止に対して以て止を明かすとは、語は上に通ずと雖も、意は則ち永く殊(こと)なり。何となれば、上の両(ふた)つの止は、生死の流動に対し、涅槃に約して、止息を論ず。心は理の外に行ずれども、般若に約して、停止を論ず。此れは智・断に約して、通じて相待を論ず。今は別して諦理に約して、相待を論ず。無明は即ち法性にして、法性は即ち無明なり。無明は亦た止にも非ず不止にも非ずして、而も無明を喚(よ)びて不止と為す。法性は亦た止にも非ず不止にも非ずして、而も法性を喚びて止と為す。此れは無明の不止に待(たい)して、法性を喚びて止と為す。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)234~236頁)

 まず、「止」には、息(止息)、停(停止)、不止に対する止という三つの意義があると示されている。
 第一の止息の意義とは、禅定を妨げる推し量る心の粗い働き(覚)と細かな働き(観)、妄念、心の想念が静かに止滅することである。これは破る対象としての煩悩を止息するという点を捉えた意義である。
 第二の停止の意義とは、心を真理に向けて、思念を目の前に集中させ、停住して動揺しないことである。これは煩悩を止息する智慧という主体によって真理に停止するという点を捉えた意義である。
 止息と停止の意義が智徳と断徳(智徳は智慧によって真理を悟ること、断徳は煩悩を断ち切ること。それぞれ菩提と涅槃に相当する)に焦点をあわせた意義であるのに対して、第三の不止に対する止の意義とは、真理に焦点をあわせた意義であり、無明と法性の相即不二を踏まえながら、無明は止でもなく、不止でもないけれども、無明を不止と呼び、法性は止でもなく、不止でもないけれども、法性を止と呼ぶのであり、無明という不止に相対させて、法性を止と呼ぶことである。無明と法性を平等視するとともに、相違の面も踏まえて、無明を不止、法性を止と区別している。
 ところで、無明(avidyā)は、十二縁起において迷い、苦悩の根本的原因と規定されているものである。文字上の意味は、無知という意味であるが、十二縁起という煩悩と苦の関係性について無知であることを意味する。天台教学では、煩悩を見思惑(けんじわく)、塵沙惑(じんじゃわく)、無明惑(むみょうわく)の三種に分類するので、無明惑は中道、中諦に対する無知を意味している。法性(dharma-dhātu)は、さまざまな存在するもの(諸法)の根底に措定される共通な真理を意味する。言い換えれば、仏によって見られる真実の世界を指し示す。したがって、無明は認識論的な概念であり、法性は存在論的な概念なので、無明と法性の相即不二ということはカテゴリー的に相違するものを対比している印象を与えるが、無明が取り除かれるとき、法性を見ることができるので、あながち無理な対比ということはできない。
 上に説明したように、止の三義が示されるが、ここで、「止」と「観」という言葉について少し説明する。「止は即ち奢摩他(しゃまた)、観は即ち毘婆舎那(びばしゃな)なり」(『摩訶止観』(Ⅰ)246頁)とあるように、止はシャマタ(śamatha)の訳語、観はヴィパシュヤナー(vipaśyanā)(※1)の訳語である。ところが、六妙門(数息・随息・止・観・還・浄の六門禅法)の第三、第四がそれぞれ同じく止と観と訳されている。この場合、止の原語はスターナ(sthāna)で、観の原語はウパラクシャナー(upalakṣaṇā)である。
 今、ヴィパシュヤナーとウパラクシャナーは、ともに観察するという意味なので問題とならないが、シャマタとスターナの意味は相違する。つまり、シャマタは、心の平静な状態、無感動の状態をいい、スターナは心を一つの場所に固定させるという意味である。したがって、智顗(ちぎ)のいう第一の息の義がシャマタの意味を捉とらえたものであり、第二の停止の義は、実はスターナの意味に基づいたものだと考えられる。シャマタとスターナという異なる原語に対して、同じく止という訳語を与えたことと、そもそも、止という漢語が止息と停住の二義(止めるという他動詞と止まるという自動詞の二つの意味)を含むことから、シャマタの訳語の止にスターナの意味をも含ませて解釈する事態が生じたのであろうと推定される。

(注釈)
※1 マインドフルネス瞑想法は、インドの伝統的なヴィパシュヤナー(バーリ語では、ヴィパッサナー)瞑想を、宗教色を脱色して現代化したものといわれる。

(連載)『摩訶止観』入門:
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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。