『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第17回 釈名(2)

[1]相待止観②

(2)観の三義

 『摩訶止観』には、観の三義について、次のように説明している。

 観も亦た三義あり。貫穿(かんせん)の義、観達(かんだつ)の義、不観に対する観の義なり。
 貫穿の義とは、智慧の利(するど)き用(ゆう)は、煩悩を穿滅(せんめつ)す。(中略)此れは所破に就いて名を得るにして、貫穿の観を立つるなり。
 観達の義とは、観智もて通達して、真如に契会(かいえ)す。(中略)此れは能観に就いて名を得るが故に、観達の観を立つるなり。
 不観に対する観とは、語は上に通ずと雖も、意は則ち永く殊なり。上の両(ふた)つの観は亦た通じて生死の弥密に対して貫穿を論じ、迷惑の昏盲(こんもう)に対して観達を論ず。此れは通じて智・断に約し、相待して観を明かすなり。今は別して諦理に約す。無明は即ち法性にして、法性は即ち無明なり。無明は観にも非ず不観にも非ずして、而も無明を喚びて不観と為し、法性は亦た観にも非ず不観にも非ずして、而も法性を喚びて観と為す。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)236~238頁)

 「観」には、貫穿、観達、不観に対する観という三つの意義があると示される。
 第一の貫穿の意義とは、智慧によって煩悩を穿(うが)ち滅することであり、破る対象としての煩悩について名づけられたものである。
 第二の観達の意義とは、智慧が真理に到達し合致することであり、真理を観察する主体としての智慧について名づけられたものである。
 貫穿と観達は、智徳と断徳に焦点をあわせた意義であるのに対して、第三の不観に対する観の意義とは、真理に焦点をあわせた意義であり、無明と法性の相即不二を踏まえながら、無明は観でもなく、不観でもないけれども、無明を不観と呼び、法性は観でもなく、不観でもないけれども、法性を観と呼ぶのであり、無明という不観に相対させて、法性を観と呼ぶことである。

[2]絶待止観

 次に、絶待(ぜつだい)止観について説いている。止息、停止(じょうじ)、不止に対する止という三止と、貫穿、観達、不観に対する観という三観の三止三観は、いずれも相対的で、思議することができ、結惑(煩悩)が生じることであり、破壊することができると説かれる。これに対して、絶待止観は、さまざまな思議を絶し、さまざまな煩悩、さまざまな業、さまざまな果を絶し、さまざまな教、観、証などを絶し、言語で説くことができないとされる。
 しかし、四悉檀(世界悉檀・為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀)の因縁(条件)があれば、また説くことも可能であるとされる。言葉で説くことができないことが一方的に強調されれば、衆生はその言葉を超えた真理にアクセスすることは不可能となってしまうので、天台教学では、四悉檀の因縁が備われば、説くことができるという面も合わせて示されるのがしばしば見られる。
 絶待止観は、また不思議の止観、無生の止観、一大事の止観とも名づけられると説明されている。言葉にとらわれる凡夫には、絶待は理解できず、絶待は聖人の境界であることが指摘されている。
 なお、ここでは、止観について、相待(そうだい)と絶待という対概念が適用されているのを見たが、『法華玄義』には「妙法蓮華経」の「妙」の解釈に相待妙と絶待妙が見られ、『維摩経文疏』には相待不思議と絶待不思議が見られる。この相待・絶待の思惟は、智顗(ちぎ)ばかりでなく、吉蔵にも同様に見られる。このような思惟方法は、中国の伝統哲学に遡ることが可能であるし、智顗や吉蔵以前の仏教者に遡ることも可能であると考える(※1)

[3]会異

 第三段の「会異(えい)」とは、異なるものを合致させるという意味である。絶待止観は、不思議止観ともいわれ、大[止観]ともいわれると指摘される。経論に出る多くの概念、たとえば不住・不著・無為・寂滅・不分別・禅定・棄・除・捨などは止の別名であり、知見・明識・眼覚・智慧・照了・鑒達(かんだつ)などは観の別名であることが説かれている。衆生の種類にしたがって、異なる名前が付けられているからである。絶待を聞いても、慎んで驚き恐れてはならないし、会異を聞いても、慎んで疑惑して自分を傷つけてはならないと忠告している。
 また、止と観をたがいに合致させることを主張し、止は観であり、観は止であると述べている。

[4]三徳に通ず

 第四段の「三徳に通ず」では、上の会異で示されたように、多くの経の別名がすべて止観であるならば、無量の名、無量の意義があるはずなのに、どうしてただ三つの意義だけによって止観を解釈するのかという問題を提示し、法身・般若・解脱の三徳に相対させるためであると答えている。三徳は涅槃を構成する重要なものであるので、とくに取りあげられている。
 内容としては、止と観がそれぞれ三徳に通じることや、止と観がともに三徳に通じることなどが示されている。
 前者については、止のなかに観があり、観のなかに止があるとしたうえで、止息の止は止善(悪を制止する消極的な善)であり、定門に所属し、解脱に通じること、停止の止は、行善(善を行なう積極的な善)であり、観門に所属し、般若に通じること、非止の止は、理に所属し、法身に通じることが示される。また、貫穿の観は、止善であり、定門に収められ、解脱に通じること、観達の観は、行善であり、観門に収められ、般若に通じること、非観の観は、理に収められ、法身に通じることが示される。
 後者については、止息の止と貫穿の観は、いずれも離れる対象(煩悩)にしたがって名づけられ、解脱に通じること、停止の止と観達の観は、いずれも認識する主体の智慧にしたがって名づけられ、般若に通じること、非止の止と非観の観は、いずれも法性と名づけ、法身に通じることが示されている。
 その他、三徳が止観に通じることなど、さまざまな説明があるが、省略する。

(注釈)
※1 この点については、拙著『法華玄義を読む―天台思想入門―』(大蔵出版、2013年)175-179頁を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。