困難を抱えた子を持つ母の祈り
小野正嗣(おの・まさつぐ)著/第152回芥川賞受賞作(2014年下半期)
〝こだわり〟の土地の力
芥川賞候補になること4回目で受賞となった小野正嗣の「九年前の祈り」。『群像』掲載の約161枚の作品。
舞台は、九州・大分県の海辺の町。主人公の安藤さなえは、地元の団体組織が主催したカナダ旅行で知り合ったカナダ人男性と結婚。一人息子の希敏(ケビン)をもうけたが、夫と離婚したことにより、やむなく息子を連れて故郷の大分の実家に戻ることに。ハーフ特有の美しい顔立ちを持つ息子は、他者とのコミュニケーションに難を抱える特性を持っていたため、さなえは子育てに苦労し一人悩む。たとえば、何かの拍子に〝引きちぎられたミミズ〟のようにのたうち回って暴れる息子を前にしたときは、なす術もなく途方に暮れる。そんなさなえの苦しい心境に変化が訪れたのは、カナダ旅行で一緒だった地元の女性、渡辺ミツの息子を見舞うために、ある島の美しい貝を採取しに行った時のこと。その時に、9年前のカナダ旅行で目にした、教会の中で祈る渡辺ミツの姿が想起され、それが物語の最終盤でさなえにある啓示を与えるのである。
印象的なのは、作者の故郷と思われる地方の鮮やかな土着の世界である。方言はもちろん、家族を含む地元の濃密な人間関係などが、息遣いや匂いまでが立ち上がってきそうなほど生き生きと描かれていて、物語世界に深く引き込むのである。作者の小野正嗣は、本作だけではなく他作でもこの土地に対する強いこだわりがあるようだ。
選考委員の小川洋子は、
小野さんが繰り返し書いてこられた、世界の片隅に潜む土地の力が、『九年前の祈り』に最上の形で結実したことを祝福したい
と述べている。髙木のぶ子も、舞台である土地に対する「こだわりの勝利か」と述べている。作者にとってこだわりのある土地というのは、物語が生まれ出るための豊穣な大地なのだ。
「切実さ」があった
選考委員の半分以上がこの作品を評価したようだが、宮本輝は、
(本作品は)ひとつの小説のなかのパーツであって、これ一作で完成品として評価するわけにはいかないと思い、積極的には推せなかったのだ
と述べている。
九年前に目にした渡辺ミツの祈る姿が、どのように主人公の心を揺り動かしたのかが物語のひとつの重要なテーマであるがゆえに、そこの解像度が今一歩鮮明でないことが、積極的に推す決め手とならなかったのではないかと推察する。
村上龍と川上弘美は強く推していたのだが、その評価ポイントが同じだったのがおもしろい。それは「切実さ」があったという点だ。
2人の選考委員の文学論の一端も垣間見えるので、少し長くなるが紹介したい。
はじめに川上弘美。
小説を書くということは、ひどく個人的な営為であるのに、その営為の結果を差し出すのは、不特定の人びと。怖いことです。けれど、その怖さをのりこえても書いたものを差し出したい、と思うからこそ、小説家は小説を書くのだと思います
と述べた上で、
「九年前の祈り」の作者には、書きたいことがある。そしてきっと、伝えたい相手もいる。その切実さを感じました
と評価している。
次に村上龍。
わたしは個人的に、小説とは切実なものだと考えている。小説を書くという行為も切実だし、描かれるモチーフも、どこかに切実なものが感じられるときに、「小説を読む」ことが有意義だと思うことができる。(中略)だが、作者自身が『伝えたいこと』を意識として把握できていないことは多い。(中略)小説は書いているうちに『伝えたいこと』が表出してくることもあるし、書き終わって、優れた批評家から指摘されてはじめて自覚することもある。それは、小説を書くという行為の中に、無意識の領域を刺激し、作者自身も気づいていなかったことが浮かび上がるという装置が内包されているからだと思う
と述べた上で、受賞作について「今回、そのようなことを感じたのは、受賞作となった『九年前の祈り』だけだった」と評価している。
書こうとする者に、何としても書きたいという切実な思いがあるのか。書けるかどうかは別として、小説の出発点はまさにそこにあるのだと、あらためて痛感させられる。
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