芥川賞を読む 第37回 『グランドフィナーレ』阿部和重

文筆家
水上修一

冷静な文体で小児性愛を描く不気味さ

阿部和重(あべ・かずしげ)著/第132回芥川賞受賞作(2004年下半期)

肩透かしのような感覚

 阿部和重は、平成16年に芥川賞を受賞するまで、群像新人文学賞、野間文芸新人賞、伊藤整文学賞、毎日出版文学賞を受賞しており、芥川賞候補にも三回あがっている。芥川賞受賞は、平成6年に初めて群像新人文学賞を受賞してから10年後になるので、満を持しての受賞ということだろう。
「グランドフィナーレ」の主人公の「わたし」は、小児性愛者の男性。自分の娘を含む幼女たちの膨大な量のいかがわしい写真が妻に発覚したことから、家庭は崩壊。法的に娘に面接することもできなくなった葛藤を丹念に描いている舞台は東京、そして人生から脱落して新しい道を歩み始めるきっかけを模索する舞台が東北の田舎町だ。田舎町を舞台とする後半の展開は、再生の兆しも見えるのだが、「わたし」の前に現れた美しい2人の少女との出会いから別の展開が見えてくる。
 読み始めてすぐに興味が湧いたのは、この特殊な性癖の本質に対する興味であった。いったい何がどうなってどこから衝動が生まれ当人の心を突き動かし犯罪的な行為に及ぶのかということを知りたかったのだが、最後までその本質が見えてこなかった。ラストシーンを読み終えた時、肩透かしにあったような気がして「これで終わり?」と思ってしまったのだ。危うい性癖によって父親として社会人として辛い境遇に陥っているその過程は実にリアリティを持って伝わってくるのだが、肝心の部分が見えてこないのである。
 選考委員の石原慎太郎はこう述べる。

主人公の少女への偏愛という異常性の所以が、自分の子供の裸の写真を撮って離婚されたという説明に終わっているだけで、小説としての怖さがどこにもない

 村上龍はこう述べる。

少女に対する偏愛という、いろんな意味で危険なモチーフについて、作者が踏み込んで書いていないのが最大の不満だった

 ただ、それはそれとして評価しているのが黒井千次。

欲望そのものより結果として与えられる苦痛にウェイトが置かれ、暗い衝動の辿る道程が浮き彫りにされているところに重量感がある

 異常性癖の生まれてくる根源的なものは姿を明確に現さないのだが、それによってもたらせる結果としての人生の過程については実に鮮やかに描かれているというわけだ。

一人称か三人称か

 興味深かったのが、この作品が「わたし」という一人称で書かれていることに対する村上龍の選評である。

このようなセンシティブなモチーフを『わたし』という一人称で書くのは致命的に未熟だと思った。『わたし』を語り手にすると、彼は自動的に客観的な自己批判力の持ち主になってしまう。自己批判力とマニアックな性癖は基本的に相容れない。したがって作品にリアルな怖さがない

 マニアックな性癖は、自分自身で解説するのではなく、第三者(神の視点)の客観的な視点の方がよりリアルに描けるというのである。語り手を一人称にするのか第三者にするのかというのはとても重要な選択なのだが、この指摘は勉強になる。主人公の衝動の生まれてくるところが何なのか不明確だった理由の一つは、この一人称で書いたからではないかと思えてきた。
 この作品には、選考委員がさまざまな批判をしている。ところが、批判しつつも最終的にはこの作品を推した選考員が多かった。なぜかというとその筆力である。冷静な文体が逆に不気味であり主人公の恐ろしさを感じさせるし、構成は抜け目なく実に細かく丹念に考えられていて、読み手をぐんぐん引き込み引っ張っていく。だからこそ、多くの賞を受賞し何度も芥川賞候補にもなったのであろう。
 山田詠美は、

乱暴で繊細。惨めで不遜。欠点はあるけれども筆力を感じて、祝、受賞

と述べ、黒井千治は、

生の悷(ねじ)れを追う筆に確かな手応えを覚えた

と言う。
 村上龍は、

批判ばかり書いたが、それでもわたしは阿部氏の作品を推した。その理由はただ一つ、小説にしかできないことに作者が挑戦しているように感じたからだ。他の候補作は、たとえば作文でも漫画でもエッセイでも表現可能だと思えるものばかりだった

と述べる。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』 第19回『水滴』 第20回『ゲルマニウムの夜』 第21回『ブエノスアイレス午前零時』 第22回『日蝕』 第23回『蔭の棲みか』 第24回『夏の約束』 第25回『きれぎれ』 第26回『花腐し』 第27回『聖水』 第28回『熊の敷石』 第29回『中陰の花』 第30回『猛スピードで母は』 第31回『パーク・ライフ』 第32回『しょっぱいドライブ』 第33回『ハリガネムシ』 第34回『蛇にピアス』 第35回『蹴りたい背中』 第36回『介護入門』 第37回『グランドフィナーレ』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。