芥川賞を読む 第23回『蔭の棲みか』玄月

文筆家
水上修一

在日朝鮮人の集落を舞台に、時代の潮流の中で生きる老人を描く

玄月(げんげつ)著/第122回芥川賞受賞作(1999年下半期)

ありありと描きだされた人物像

 受賞者のなかった前回(第121回)とは打って変わって、第122回はW受賞となった。その一つが、当時34歳だった玄月の「蔭の棲みか」だった。大阪生まれの玄月は、アルバイトや父親の町工場の手伝いをするかたわら、大阪文学学校で創作の腕を磨き、頭角を現し始める。受賞者なしとなった第121回で芥川賞候補となっている。
 在日朝鮮人が暮らす大阪の下町が舞台だ。まるでスラムのような集落に暮らす主人公のソバンは、最古参の住人で、戦争で手首を落として以来68年間この集落に暮らし続けてきた。妻も子どもも亡くし仕事もせず、無為に流れていく日々の中で、街の変遷を見てきた。さまざまな人物や、集落の中で起きる事件や出来事や日常を描きながら、この特殊な集落とそこに住む人間を描いている。
 在日の問題については、メディアで知る程度の知識はあるが、そうした集落で生活する人たちの日常や町の空気、抱えている怒りや悲しみの質感というのは分からない。しかし、この作品は、まるでその集落に足を踏み入れたかのごとくに臭いや湿度までを描き出している。その描写は見事だ
 この作品を推した選考委員の評価ポイントもまさにそうしたことだ。池澤夏樹はこう絶賛する。

異人種として中国人が入ってくることで、これはただの過去の昔語りではなく、先へ続く現実の話である点を強調する。受賞に値する作であると考えて推した

黒井千次もこう評価する。

そこで生活する在日韓国人・朝鮮人の中には世代の違いがあり、更に集落内の工場では中国人も働いている。この相対化された、時間と民俗の絡み合いの中を生きる七十代半ばの主人公の姿がくっきりと描き出されているだけに、読む側は、重い石を手渡された印象を受ける

何かが足りない

 ただ、私は読後に何か物足りなさを感じた。心が動かなかったのである。読み手の心を動かすためには、書き手が何としてでも描き出そうとする〝核〟のようなものが必要だが、読み進めても、それが見えてこないのである。憤怒なのか悲哀なのか、それが分からない。おそらく、描こうとしているものが多すぎて、散漫になっているのではないか。
 三浦哲郎はこう述べる。

正直いって私にはよくわからないところの多い作品であった。三度繰り返し読んで、ようやくソバンの生涯や彼が生きてきた集落について一応理解できたと思ったが、それでも残念なことにソバンの哀しみや憤りに胸を打たれるまでには至らなかった

 石原慎太郎は、さらに手厳しい。

作者が何を訴えようとしているのかがわからない。その限りでこれはただの風俗小説の域を出ていない

 興味深いのが宮本輝の評価である。諸手を挙げて評価しているわけではないがこう述べる。

在日朝鮮人の歴史も、長い年月と時代の変化によって、否応なく処世観も変化し、世代交代も拒否しようのない流れで進んでいる。その同じ民族間におけるギャップを、丁寧なディティールによって描写した。演説でも説明でもなく『描写』した点を私は推した

 つまり、十分に描写できていることこそが、この作品の優れている点で、それ以上のことは読み手に委ねると言っているのだろう。
 客観的な事実だけを淡々と描写して、説教じみたナレーションなどを入れない優れたドキュメントもある。そうした作品は、そこから立ち上がってくる何かを、受け手側それぞれが感じてほしいというスタンスだと思うが、『蔭の棲みか』もそうした作品なのかもしれない。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』 第19回『水滴』 第20回『ゲルマニウムの夜』 第21回『ブエノスアイレス午前零時』 第22回『日蝕』 第23回『蔭の棲みか』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。