芥川賞を読む 第7回 『至高聖所(アバトーン)』松村栄子

文筆家
水上修一

孤独と痛みの癒しを求めるキャンパス小説

松村栄子著/第106回芥川賞受賞作(1991年下半期)

筑波学園都市が舞台

 第106回芥川賞を受賞したのは、当時30歳だった松村栄子の「至高聖所(アバトーン)」だった。『海燕』(1991年10月号)に掲載された123枚の作品だ。
 ――舞台となっているのは、(おそらく)筑波学園都市。整然と区画整備されたエリアに近代的な学部棟や研究施設が建ち並び、そこを行き来するのは学生と研究者と大学関係者などのごく限られた階層の人たちだけで、人間臭い市井の人々や労働従事者などの姿はない。いわば特殊なコロニーだ。
 大学の寮で学生生活を始めたばかりの主人公・沙月は、奇妙な行動の多いルームメートの真穂とは相容れることがなく、お互い距離を取りつつ大学生活を始めるが、徐々に真穂の胸の奥に抱え込んでいる孤独と痛みに引き寄せられる。
 真穂は、自らの癒しを求めるかのように、かつてギリシャの神殿の最奥にあったという夢治療の場所「至高聖所」を舞台とした戯曲の創作に情熱を傾けるのだが、その上映は実現しなかった。沙月は、真穂の孤独と痛みに共鳴するなかで自らのなかにもあった孤独と痛みを発見し、自分自身の癒しを求めて、「至高聖所」を探す――。
 小説家が一つの作品を書こうと思う最初のきっかけは、おそらく、何らかの激しく心を動かす人や出来事や風景や物があって、そこから膨らんでくる物語を描こうとするのだろうが、この作品の場合、それは〝鉱物〟らしい。
 沙月は大学の鉱物研究会に入って日夜鉱物と向き合うのだが、鉱物の何に惹かれるのかというと、安らぎと切なさだ。くっきりとした輪郭と安定した結晶構造をもち計算できる世界に感じる安らぎと、決してその内部には触れることができず拒絶されることの切なさ。この矛盾したような感覚から生まれる淋しさのようなものが、筑波学園都市という無機質な場所で営まれる物語の底辺にずっと流れていて、それが十代の女子大生の感覚をみずみずしく表現することに効果をあげている。
 選考委員の黒井千次は、『文藝春秋 1992年3月号』の「芥川賞選評」(以下同)のなかでこう評している。

作者本来の資質が、石のイメージを手がかりにして表現を切り開いた、と考えるべきかもしれぬ。(中略)生命のこの季節にのみ実を結ぶ澄んだ淋しさを清潔な輪郭で描き出している。

 文章のうまさは言うまでもない。癖の強い読みづらい文章とは真逆で、飾ることなくサラサラと流れるように書きながら、それでいて微妙な感覚を的確に表現する。力む必要もなく水を流し込むように、けれども手応えを感じながら読み進められる。
 選考委員の河野多惠子は、「文章は一行ごとに小気味よく展開する」と言い、三浦哲郎は「清澄な文章に敬意を表しておこう」と言う。

創作を会得している作者

 私は、この作品を発表された当時読んだのだが、当時は何を表現しているのか分からず、「芥川賞はおもしろくない」と立腹したことを覚えている。その最大の原因は、終盤の展開にあった。
 好きだった姉が結婚したショックで不眠症になるという終盤あたりからの展開が強引すぎて、ついていけなくなり、表現しようとするものが見えなくなるのだ。選考委員の大江健三郎は、最終的には高評価をしながらも、こう述べている。

さて、そのような進行の後のしめくくりだが、ヒロインの内面では整合性があるものの、外側から見れば気分的な弱さのあらわな結末となっている。このあいだのへだたりを埋めて、客観的にも堅固な世界をつくることが、若い作者の成熟への道すじとなろう。

 つまり、主人公の内面は一貫しているのだが、その感情や気分の弱さゆえに読み手にそれが伝わらないのだ。
 ラストシーンは早い段階で決まっていたのか、あるいは終盤にいたって生まれたものかは分からないが、描こうとするものの輪郭が少しでも不明瞭だったり、ブレたり、それまでに散りばめたシーンとの整合性がとれなくなると、うまく着地するのが難しくなる。特にこの作品のような非常に微細な感覚を描く場合はなおさらだろう。
 芥川賞に選ばれた理由は、もっとも強く推していたことが想像される河野多惠子のこの評に集約されているようだ。

何よりも作者が創作というものを全身で会得している様子が信頼できるので、この作品を推した。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。