芥川賞を読む 第14回 『この人の閾(いき)』 保坂和志

文筆家
水上修一

平凡な日常生活のなかにある〝張りつめたもの〟

保坂和志(ほさか・かずし)著/第113回芥川賞受賞作(1995年上半期)

物語展開の少ない平凡さ

 第112回の芥川賞は、漫画家の内田春菊の「キオミ」などが候補作としてあがり注目を集めたが、結局受賞作はなし。次の第113回の芥川賞は、保坂和志の「この人の閾(いき)」が受賞した。1995年3月号の『新潮』に掲載された推定枚数93枚の作品だ。保坂は、この時すでに野間文芸新人賞(1993年)を受賞し、三島由紀夫賞も二度候補になっていた実力者だったわけで、そういう意味では満を持しての芥川賞受賞である。
 保坂の作風は、ドラマティックな物語展開のない、どこにでもある平凡な日常を語るところにあるが、「この人の閾」もまさにそうだった。事件らしきものもなければ、特筆すべき物語展開も起きない。
 三十七歳の主人公の男性(ぼく)が所用で小田原に行くのだが、相手は不在。時間つぶしのために、同じ小田原に住んでいる、大学時代のサークル仲間だった女性の家を訪ねる。すでに家庭を持ち立派な一軒家に住んでいた彼女と一緒に、庭の草むしりをしたり、ビールを飲みながらあれこれ語り合う。話す内容は、家庭における主婦というものの存在や、読書をすることの意味など、知的なことが多い。だが、別にどうということはない。ストーリーは、たったこれだけ。
 選考委員の評価が分かれた点も、まさにこの「平凡な日常」だった。これを評価した選考委員もいれば、これを良しとしない選考委員もいた。
 まずは否定的な意見から見ると、田久保英夫はこう述べる。(『文藝春秋』1995年9月号の「芥川賞選評」から)。

ふだん私たちは、日常生活の散漫さ、とりとめなさの中に、自身で思う以上に漬っている。それだから、逆に小説を読む時、日常の舞台をステップにして、それを一瞬でも超える歓びや充足感を味わいたい、と願う。その時、日常が一つの世界の姿で開示される。今回の受賞作、保坂和志氏の『この人の閾』に、私はそうした感覚を味わえなかった

 丸谷才一は、こう指摘。

人生そのものはこんな調子だとしても、小説のなかの人生としてはこれでは退屈なのぢやないか。小説のなかに生の人生を切り取って貼付けたとて、それが小説の手柄なのかしら

 いずれも、小説の魅力である非日常の体験がないというのである。もっともな話だ。こうした意見は、他の選考委員にも広く見られたが、それでも評価されたのは、なぜか。

語りのしなやかさと高い描写力

 黒井千次はこう言う。

他人の既成の家庭を覗き込むという形で書かれているために、語りのしなやかさと人物の主婦像とがくっきり浮かびあがり、三十八歳の女性の精神生活の姿が過不足なく出現した

 大江健三郎はこう言う。

新しい世代の女性を生活のなかにしっかり位置づけて描き、彼女を見る青年の内面もよくとらえて、軽快で清新な読後感がある

 不思議だったのは、ありふれた日常生活のひとコマを描いたにもかかわらず、飽きることなくスイスイ読み進めたことである。それは、力の抜けた自然体の文章が読みやすいことはもちろんあるのだが、平凡な日常生活のなかに何かしら危ういものが隠されていて、それがどこで急に立ち上がって来るかもしれないという緊張感のようなものがあったからだ。題名のなかの「閾」という一文字には、「感覚や刺激を感知できるか否かの境目」という意味がある。おそらく作者は、平凡と思える日常のなかにもちょっとした刺激によって発生する非日常的なものが隣接しているような緊張感を狙っていたのではないか。だとすると、一読者である私は、見事にその術中にはまったことになる。
 もっとも強く推したと思われる日野啓三は、次のような表現で賞賛している。

何事か起こりそうで起こらない負のエネルギーの張りつめた空間。白っぽく繊細な抽象絵画のような。(中略)バブルの崩壊、阪神大震災とオウム・サリン事件のあとに、われわれが気がついたのはとくに意味もない一日の静かな光ではないだろうか。オウム事件に対抗できる文学は細菌兵器で百万人殺す小説ではないだろう

 ハラハラするような出来事によって読者を物語のなかに引きずり込むのは当たり前だとしても、取り立てて何もない物語展開で引きずり込むためには、相当緻密で考え抜かれた構成と筆力が必要だろう。
 こうした作品が芥川賞を受賞するのを見ると、何かエキセントリックな題材を引っ張り出すだけではなく、平凡に見える日常のなかに特異性をどう見い出して、それをどう描くかという視点と能力が欠かせないことがよく分かる。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。