芥川賞を読む 第11回 『石の来歴』奥泉光

文筆家
水上修一

講談的な文体で謎めいた世界を描く

奥泉光著/第110回芥川賞受賞作(1993年下半期)

力量ある文体で読者を引き込む

 第110回芥川賞を受賞したのは、当時37歳だった奥泉光。後に芥川賞選考委員となり、現在もその任を担う。以前から注目されており、すでに何度か最終候補に残っていたから満を持しての受賞と言えるだろう。
「石の来歴」は、162枚の作品。奥泉の作品は、ミステリー的な要素をもち、夢か現か分からない謎の部分に読者を引き込む手法が得意だが、受賞作もまさにそうした作品だ。

――レイテ島の森の中を敗走する主人公・真名瀬。死にかけた多くの兵士が身を隠す悪臭漂う洞窟の中で、真名瀬は上官から一人の瀕死の上等兵を殺すことを命じられる。ただ、それに対して真名瀬自身がどういう行動をとったのか、今となってははっきりしない。刀で無残に切り殺したようにも思えるし、外に連れ出して助けたようにも思える。ただ明白に覚えているのは、今際(いまわ)の上等兵の手に握りしめられていた石と、上等兵が石の魅力について延々と語り続けた内容である。
戦後、真名瀬は、戦中の辛い記憶を置き去りにするがごとく、秩父の片田舎で趣味の石採集に明け暮れるのだが、それがもとで大切な長男を失い、その悲しみで妻が発狂し、やがては次男をも失くす。そうした悲惨な人生と残忍な戦中の記憶を繋ぐのは、洞窟だ。レイテの洞窟と秩父の洞窟が暗い因縁めいたものでつながりながら、恐怖を伴う暗い物語に読者を強引に引きずり込む――。

 まず驚くのは、タフな想像力と、それを表現する文体だ。年齢的にレイテ島での出来事を体験しているわけではないはずだから、徹底的に調査をしながら当時の状況を描いているのだろう。しかし自らが体験したことのないものをこれほどまでにリアリティーと重量感を読者に感じさせるのは、その想像力に加えて独特の文体による説得力があるからなのだろう。豊富な語彙力を縦横無尽に駆使しながら、淀むことなく水が流れるように語るそのスタイルは、濃密で艶がある。
 選考委員の三浦哲郎は、「芥川賞選評」(『文藝春秋』1994年3月号)でこう評する。

奥泉光氏の作品を読み終えるたびに、力相撲をとったあとのような疲労をおぼえる。けれども、その疲労感は必ずしも不快なものではない。今度の『石の来歴』も例外ではなくて、読後の疲労感はこれまでよりも快かったといっていい。これはおそらく、この作者の持ち味である淀みのない語りくち、読ませる力、読者を引きずっていく力技に、いよいよ磨きがかかってきた証拠かと思われる。

 吉行淳之介はこう述べる。

奥泉光氏の作品は、これで四作読んだ。いつもその腕力と言葉の氾濫に負けそうになっていたが、今回は素直に降参することにした。

 また、実体験とは遠いところの題材を描く力については、黒井千次がこう指摘している。

才能とか資質という言葉よりも、力量という表現のまず頭に浮かぶのが、奥泉光氏の『石の来歴』であった。それは奥泉光氏の作品が、体験と比較的近いところに素材を採ってそこから生まれるリアリティーを梃子(てこ)に小説を書こうとするのではなく、むしろ自分の身体から出来る限り離れた場所に一つの世界を構築しようとしているために与えられた印象なのだろう。

 中途半端な体験よりも、体験からは遠く離れた世界を自らの想像力と筆力だけで構築するほうが物語の力が強まる、ということなのだろう。

モノを使って抽象的なものを描く

 戦時中の残忍な記憶を人はどう封じ込め平穏な現在を生きるのか、あるいはそれは難しいことで、陰に陽に重しを背負ったまま生きていかざるを得ないのか――。文学にとっては一つの大きなテーマだろうが、この作品は、〝石〟という象徴を用いてその連鎖(関係性)を恐ろしいほど見事に描いている。
 ここで描かれている〝石〟は、地球の無限の過去の時間が閉じ込められているということの象徴で、つまり、〝石〟には地球上の全過程が刻印されているというのだ。この象徴が恐ろしいのは、それが人間をも含むということが暗に示されている点である。そう考えると、仏教の〝業(ごう)〟の思想に近いのではないか。
 作品冒頭のエピグラフには、「ルカによる福音書」の19章40節のこんな一節が引用されている。「あなたがたに言っておく、もしこの者らが沈黙するなら、石が叫ぶであろう」。
「石の来歴」という題について、河野多惠子はこう指摘している。

その石に全編が重層的抽象性をもって結ばれており、標題の中心の意味もその石にある。読み終えてみて、見事な題であることがよく判った。

 抽象的なものを描こうとするときに、モノなどを使ってそれを象徴的に表現することはよくあるが、この作品はそのやり方について大きなヒントを与えてくれる。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。