芥川賞を読む 第12回 『タイムスリップ・コンビナート』笙野頼子

文筆家
水上修一

幻想的な設定と文章で抽象的な世界を描く

笙野頼子(しょうの・よりこ)著/第111回芥川賞受賞作(1994年上半期)

難解と称される作品群

 1956年生まれの笙野頼子は、立命館大学在学中から小説を書き始め、大学卒業後も就職せずに他大学受験を口実に予備校に通いながら小説を書き続けた。1981年に『極楽』で群像新人文学賞を受賞し小説家デビューしたものの、その後、約10年間は評価されることはなかった。実家からの仕送りを頼りにひきこもりのような生活をしながら書き続け、1991年に「なにもしてない」で野間文芸新人賞を、1994年に「二百回忌」で三島由紀夫賞をそれぞれ受賞。そして、同じく1994年に「タイムスリップ・コンビナート」で第111回芥川賞を受賞した。
 野間文芸新人賞、三島由紀夫賞、芥川賞という純文学の新人賞を獲得したことで新人賞三冠王と呼ばれた彼女は、その後も執筆の熱の衰えることはなかった。「純文学論争」を巻き起こすなど、「戦う作家」として今も書き続けている。
「難解」とも評される彼女の作品には熱烈なファンが多い。何が難解と受け止められるかというと、幻想的で奇抜な設定と、自由奔放な文体だ。「タイムスリップ・コンビナート」もまさにそう。
 冒頭の出だしは、こうだ。

去年の夏頃の話である。マグロと恋愛する夢を見て悩んでいたある日、当のマグロともスーパージェッターとも判らんやつからいきなり電話が掛かって来て、ともかくどこかへ出掛けろとしつこく言い、結局、海芝浦という駅に行かされる羽目になった

 こうして、自宅のある都内から、横浜市鶴見区に実在する海芝浦駅という風変わりな駅まで行く、一種、紀行文的な構成になっているのだが、これがまた奇妙なのだ。
 まず冒頭の夢か現実か分からない浮遊するような感覚の文章は、途中で現実的なものに変化していくのかと思いきや、最後の最後までずっと続くのだ。それはまるで夢遊病者か薬物中毒者の独白かと思わせるような叙述だ。ところが、途中いきなり現実味を帯びた文章が出てくる。それは、主人公が幼少期を過ごした、コンビナートと海のある三重県四日市市における記憶である。幻想の中に浮かび上がる正気のリアルさが、鮮烈だ。

今と昔をつなぐ「コンビナートと海」

 私は行ったことがないのだが、この実在する海芝浦駅はとても変った駅だ。鶴見線の海芝浦支線の終着駅で、ホームは海に面している。出口は、東芝の工場の入り口になっているので、東芝の社員でない人はそのまま引き返すか、海を見ているしかない、行き止まりの場所なのだ。
 言うまでもないが、この海芝浦駅と、幼少期を過ごした四日市の光景や空気感は、リンクしている。目の前に海はあるけれども、それはコンビナートと共存する海。美しい砂浜や緑の松林とは無縁の鉛色の海面が揺れる海だ。高度経済成長を支えた場所である。
 選考委員の河野多惠子は、「芥川賞選評」(『文藝春秋』1994年9月号)でこう評する。

東京への移住者である主人公にとって、海芝浦とコンビナートのある郷里の四日市とが互に呑み込み合い、消化し合う。まさにリアリズムでは捉え得ない、その微妙で深く有機的な首都と郷里の主人公における関係を、作者は実に巧妙な抽象性を用いて表現している

読み解くよりも感じること

 物語の展開は、何がどうするわけでもない。ただ時々、時間が前後にスリップしながら、自宅から海芝浦駅までの道中を描いているだけだ。にもかかわらず、読後は、確かに、何かが胸にはっきりと残る。
 それをあえて言葉にすれば、「ここじゃない」という感覚。自分がいるべき場所やいるべき時はここじゃない、にもかかわらず、どうして自分は今ここにいるのだろうという、寄る辺のない感覚だ。
 笙野の作家デビューを果たした初期のころ、田久保英夫は彼女の文章を「小説の文章とは思えない」と評したそうだ。それはそれで理解できるけれども、イメージが次から次に氾濫するかのように溢れ出るシュールな文章は、論理的に読み解くものというよりも、全体から浮かび上がってくる薄ぼんやりとした〝何か〟を感じ取るものだと思えてくる。
 選考委員の黒井千次は、こう評する。

薄い色彩で描かれた夢の中に読む者を誘い込む雰囲気を湛えた、不思議な味わいのある作品である。浮遊する感覚にリアリティーがあり、実在する固有名詞に幻想性が宿り、東京という土地のイメージが奇妙な風景画のように浮かび上がってくる

 私は、海芝浦駅に行ったことはないが、彼女がこの作品を書こうと思ったきっかけを与えたかもしれない場所を、一度は見てみたくなった。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』  第13回『おでるでく』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。