芥川賞を読む 第13回 『おどるでく』室井光広

文筆家
水上修一

読み進めるのが難儀な前衛的作品

室井光広(むろい・みつひろ)著/第111回芥川賞受賞作(1994年上半期)

日本語をロシア文字で表音化した日記

 第111回の芥川賞はW受賞だった。前回取り上げた笙野頼子の「タイムスリップ・コンビナート」と、今回取り上げる室井光広の「おどるでく」だ。『群像』(1994年4号)に掲載された作品で、枚数は約119枚。受賞時の年齢は39歳。
 この作品を語る上では、作者の経歴を知っておいた方ほうがいい。1955年に福島県南会津郡で生まれ、慶応大学卒業後に大学図書館に勤務。予備校講師などを経て創作を開始しているが、当初その才覚を発揮したのは小説ではなく評論だった。1985年には、群像新人文学賞と早稲田文学新人賞のいずれも評論部門で候補となっており、1988年には、「零の力――J.L.ボルヘスをめぐる断章」で、群像新人文学賞「評論部門」を受賞。そして、その12年後に芥川賞受賞を果たしている。
「おどるでく」は、とにかくわかりづらい。最後まで読み進むのに難儀した。これはわたしがアホだからかとも思ったが、他のさまざまな媒体のレビューを見ても、みなさん相当読むのに苦労している様子が伺える。
「おどるでく」の概要は、こうだ。
 東北にある主人公の生家の納屋の二階で、大学ノート七冊分の日記を発見するところから話は始まる。日記の主は仮名書露文という名の人物。そこに書かれた文字はロシア文字なのだが、それはロシア語ではなく、日本語の内容がロシア文字で表音化されたものだった。石川啄木が自らの女性遍歴と性体験を赤裸々にローマ字で書いた『ローマ字日記』と同じ手法である。他人に読まれてもおそらく解読できないがゆえに自分に対してより正直で本質的な思考や表現がそこにはある。
 主人公は、その日記を、普通に読める漢字仮名交じり文に訳していくのだが、そのなかで地方の民俗を見直しながら、日本語のもつ不思議さや霊的存在のようなものについて縷々語っていく。タイトルの「おどるでく」は、そうした霊的存在を象徴しているようだ。

これは小説なのか?

 文体は明確で揺るぎのないしっかりしたものなのに、どうしてこうも読み進みづらいかというと、小説だと思いながら読んでいるのに、書かれた日記の内容についてひたすら論説しているので、物語展開があまりにも少ないのだ。しかも、言語学的なテーマに関する叙述が多すぎて、関心のない者にとっては読み進めるのがなかなかの苦痛なのだ。言ってしまえば、小説としてはかなり前衛的なのである。
 そういう意味で、選考委員のなかには、「これは評論かエッセーではないか」という指摘も多かった。これは、前述した作者の経歴からも推察できることだろう。
 丸山才一は、「芥川賞選評」(『文藝春秋』1994年9月号)でこう評する。

作品の世界へはいつてゆけなくて困りました。評論体の小説といふのはわたしの縄張りのはずなのだが、読んでゐてどうも力がこもらないのですね。いろんな本の話もピンとこなかったし、登場人物たちも印象が薄かった

 三浦哲郎はこうだ。

これはエッセーであろう。作者が相当な知識人であり、従来の小説の枠を打ち破ろうといろいろ工夫を凝らしていることはわかるが、私はこの作品を小説と認めることができなかった

 田久保英夫はこう言う。

小説的な因子はなくもないが、それはあまりにも『おどるでく』の論述に従属しすぎる。ここを支配するのは、ほとんど批評の言語だ

 古井由吉はこう指摘。

小説になる以前の境を、いきなり小説の瀬戸際としてひきうけているように見られる

 受賞に明確に反対したのは、河野多惠子だった。

一部によさは見られるので、最初から避けることはしなかったが、受賞には反対した。書きたい気持ちの沸っていることは分るけれども、まだ無闇に書きたいだけで、創作衝動以前のものにしか感じられなかった

 にもかかわらず、受賞したのはなぜか。選考会のなかでどんな議論がなされたのかはわからないが、もっとも強力に推したと思われるのが大庭みな子だろう。

文学の愉しさと、新しい世代の感性の手応えがあっていい気分だった

 大江健三郎は、「芥川賞が、まず既成文壇への批評である以上、こうした受賞作は有効なはず」と評価している。芥川賞という文学賞の特性がよくわかる。
 にしても、難しすぎるせいだろうか、単行本は芥川賞史上最低の売れ行きだったそうで、文庫になることもなかった。作者はその後、大学の教壇に立ったり、文芸評論を刊行したり、文学塾を開くなどした。残念ながら一昨年2019年9月27日に逝去された。
 評論、なかんずく日本語についての評論に関心のある人には、一読をお勧めする。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』
第14回『この人の閾(いき)』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。