芥川賞を読む 第10回 『寂寥郊野』𠮷目木晴彦

文筆家
水上修一

認知症や国際結婚など、大きな問題を描いた名作

𠮷目木(よしめき)晴彦著/第109回芥川賞受賞作(1993年上半期)

芥川賞らしからぬ大きな物語

 第109回芥川賞を受賞したのは、𠮷目木晴彦の「寂寥郊野」(せきりょうこうや)だった。当時36歳。『群像』(1993年1月号)に掲載された180枚の作品だ。
 賛否両論、意見が分かれることも多い芥川賞選考会だが、選評を読んでみるとほぼ満場一致での授賞決定だったようだ。𠮷目木はすでに別作品で「第10回 野間文芸新人賞」や「第19回 平林たい子文学賞」を受賞している実力者だから、その安定感は抜群だったのだろう。
     
 第2次大戦後、在日米軍基地で働いていたリチャードと結婚し渡米した幸恵は、ルイジアナ州に居を構え、2人の子どもを育てた。日本人に対する偏見がまだ強かっただろう時代の南部の土地で、さまざまな苦労を乗り越えながらも毅然と生きてきた。けれども平穏な余生を迎える年代の64歳の時に、幸恵に異変が。アルツハイマー病を発症したのだ。
     
 読後の率直な感想は、よい意味で「芥川賞作品らしくないなあ」ということだった。誰も描いたことのないような狭小な世界を独自の感性で徹底的に描き切る作品が多いなか、この作品は、アルツハイマー病で記憶をなくしていくという骨太なテーマや国際結婚という問題を、真正面から取り上げた。本来長編小説になりそうな題材を、180枚という、それほど多くない枚数で鮮やかに切り取っているのだ。しかも、綿密な調査と膨大な資料を駆使しながら書き込んでいるので、物語の重量感が違う。
 選考委員の古井由吉は、「芥川賞選評」(『文藝春秋』1993年9月号)でこう述べている。

落着いた筆致である。急がず迫らず、部分を肥大もさせず、過度な突っ込みも避けて、終始率直に、よく限定して描きながら、一組の老夫婦の人生の全体像を表現した。なかなか大きな全体像である。

 言うまでもないが、これだけ大きな物語をこの枚数で描けたのは、現在進行形の認知症の変化を軸に置きながら、派生的に過去の出来事などを書き込んでいったからだ。
 また、登場人物が多いのも印象的だった。夫婦に加え、2人の息子と、その嫁と孫たち。さらに、夫婦がこれまで培ってきた地域の人間関係や夫の事業関係者。どちらかといえば、少人数の登場人物の内面や心情を叙述しながら物語を進めていく傾向が強い芥川賞作品のなかにあって、この作品は登場人物の個性を、主に会話によって際立たせながら、物語を進めていくのだ。それゆえ、何か演劇や映画を見ているような感覚になる。
 選考委員の黒井千次はこう述べる。

作品の構成がしっかりとして人物の輪郭が鮮やかであるために、あたかも家庭劇のステージに接しているかのような感がある。

日本文学の可能性

 タイトルの「寂寥郊野」は、リアルか架空かは知らないが、物語の舞台となったルイジアナ州のある土地の和訳である。そこは、夫婦が過去に大きな傷を負った場所だ。夫が事業で友人から裏切られ、そのせいで、貯金を使い果たし持ち家も失う。さらには異国の地で築き上げてきた地域からの信用もなくしてしまう。つまり、寂寥郊野は、夫婦の孤独を生み出した象徴の場ともいえる。
 記憶をなくすということは、自分の生きてきた歴史や足場をなくすということだ。その恐怖や孤独は、当人でなければ分からないだろう。この作品は、大きなテーマを描きながら、さらに、その先にある、何か達観したような、澄み切ったような、屹立した個の大きさのようなものまで描こうとしている。恐怖と孤独に震える幸恵が、自分を襲う悲劇の事実を受け入れて、その先に見出した安堵のようなものは、救いではあるが、同時にそれさえも寂寥感を漂わす。
 この大きな作品に対して、「日本の新しい文学だ」と絶賛する選考委員も多かった。日野啓三は、

このような新しい文学が育ってきたこと、それがほぼ全員の選考委員たちに認められたことを私は喜ぶ。𠮷目木氏はこれからの日本の文学の可能性をになう貴重な才能のひとりとなるだろう

といい、河野多惠子は、

人物を人格において捉えて、みごとに成功している。日本文学としては、こういう例はまだ少なく、そもそも未発達の分野である。すぐれた前衛作品が出現した。

と述べている。
 残念ながら、その後、𠮷目木は小説はあまり発表せず、大学教授として小説創作を教える側に立っている。
 この作品は、『ユキエ』(監督:松井久子、主演:倍賞美津子)というタイトルで映画化もされているので、ぜひ触れてほしい。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。