芥川賞を読む 第36回『介護入門』モブ・ノリオ

文筆家
水上修一

介護から見えてくる愛情の本質を饒舌体で描く

モブ・ノリオ(もぶ・のりお)著/第131回芥川賞受賞作(2004年上半期)

「YO、朋輩(ニガー)」というフレーズの是非

 モブ・ノリオの「介護入門」は、社会から逸脱した大麻中毒でラッパーの「俺」が、痴呆で寝たきりの実の祖母をかいがいしく介護する物語だ。介護という、いわば人間の善性に頼る部分の大きい営みと、善性などには背を向けたような生き方の「俺」との取り合わせが印象的で、社会的にも話題となった。
 まず最大の特徴がその文体だ。ラッパーが言葉を乱射するような饒舌体で、しかもところどころで筆者はラリっているのではないかと思わせるような非常に混沌として分かりづらい、それでいて感覚鋭い表現が続くことがあり、決して読みやすい文章ではない。また、要所要所でラッパー特有の「YO、朋輩(ニガー)」というフレーズをぶち込んでくるので、読み手によっては嫌味に感じることもあるだろう。しかし、この合いの手のようなフレーズは、言葉が熱を帯びて熱くなりすぎたところに一種の熱さましのように放り込むことで、一呼吸おく役割を果たしている。
 なぜ、あえてこうした文体を選んだのかは想像を巡らすしかないのだが、選考委員の宮本輝は「おそらくこの口調でなければ『介護入門』という小説はごくありきたりな凡庸なものにならざるを得なかったと思う」と述べているように、介護という社会にごく普通に存在する営みを、ラッパーで大麻中毒の息子が実践するという特殊性を強調するためなのだろう。
 宮本輝はさらに、

日々の辛さやいらだちや不安や怒りは、まことに正論である。(中略)だがその正論が、モブ氏がこの小説で使った口調によって価値を持ったとするなら、私はその点においてある種の危惧を抱かざるを得ない。それは単なる一過性の小技にすぎないのであって、一篇の小説が内包する本質的な深さとは無関係だからである

とも述べている。
 山田詠美にいたっては、

主人公の息苦しさが良く描かれていて心に痛い。でも、朋輩にニガーなんてルビ振るのはお止めなさい。田舎臭いから

とにべもない。

介護の裏にある欺瞞と偽善を叩き切る

 主人公は、親戚や世間から見れば仕事もせずに自分の部屋で無為に過ごしているイカれた青年で、祖母の介護に関しても気が変わったら途中で放り投げてしまうのではないかと周りからは危惧されているようなのだ。しかし「俺」からすればそれは全く逆で、汗も涙も流さずに血のつながりだけで祖母のことをさも心配しているふうに振舞う親戚連中こそが欺瞞と偽善だらけなのだ。そうしたことに憤りながら懸命に介護を続ける主人公の姿からは、人と人とのつながりとは何なのか、血とは何か、愛情とは何なのか、考えさせられて、通りいっぺんの介護論からは見えてこない人間の本質さえ見えてくる。
 特に、読み進めるにしたがって、その独特の文体から醸し出される怒りや苛立ちや狂気じみた感覚のなかから、「俺」の祖母に対する愛情や哀しみが痛いほどストレートに立ち上がってきて、胸に迫るものがある。
 全体的に厳しい評価が多い中、黒井千治と池澤夏樹と古井由吉は高く評価している。
 黒井千治は、

マリファナ常習者の孫が動けぬ祖母の面倒をみる行為は、建前の世界から外れた場での人と人との剥き出しの結びつきを示すものに他ならない

と評価。
 池澤夏樹の評価はこうだ。

話の中心には祖母と母と語り手という聖家族がおり、ここにだけ介護を通じて発見された本当の愛がある。作者はこの発見を世に伝えるために小説という手段に訴えたかのごとくで、この初々しさは好ましい

 古井由吉はこう評する。

もしも、介護の青年、あるいは青年のなれのはての者が、古い言葉を使えば『全身全霊』を挙げて――作中には『魂』という言葉も見える――ここに掛かっているとすれば、そしてこの窮地の内にこそ、剥離解体しかけた言葉と、さらに現実を回復する足がかりを見出しつつあるとすれば、ここに今の世の、ひとつの、神話と言わず例話の、始まりがひそむ

 賛否がはっきりと分かれた作品だったが、強烈に推す人をつかむためには、自分が信じ言葉と表現方法で自分が信じたものを躊躇なく描くしかない。迷いがあっては輪郭がぼやけてしまう。反発する人もいなくなる反面、推す人もいなくなる。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』 第19回『水滴』 第20回『ゲルマニウムの夜』 第21回『ブエノスアイレス午前零時』 第22回『日蝕』 第23回『蔭の棲みか』 第24回『夏の約束』 第25回『きれぎれ』 第26回『花腐し』 第27回『聖水』 第28回『熊の敷石』 第29回『中陰の花』 第30回『猛スピードで母は』 第31回『パーク・ライフ』 第32回『しょっぱいドライブ』 第33回『ハリガネムシ』 第34回『蛇にピアス』 第35回『蹴りたい背中』 第36回『介護入門』 第37回『グランドフィナーレ』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。