芥川賞を読む 第26回『花腐し』松浦寿輝

文筆家
水上修一

街と人間の堕落が放つ甘美な腐敗臭

松浦寿輝(まつうら・ひさき)著/第123回芥川賞受賞作(2000年上半期)

湿り気のある静かな文体で引きずり込む

 W受賞となった第123回芥川賞のもうひとつの作品は、松浦寿輝の「花腐し(はなくたし)」だった。原稿用紙約123枚。43歳での受賞。大学教授のかたわら詩人、評論家としても活躍していて、高見順賞、吉田秀和賞、三島由紀夫賞などをすでに受賞していた。芥川賞候補になったのはこれが2回目だった。
      
 舞台は、多国籍な街、新宿・大久保。主人公は、友人と立ち上げたデザイン事務所の経営が行き詰まり倒産に追い込まれた男。仕事も家も失った主人公は、雨降るある夜、今にも崩れ落ちそうな廃屋寸前のボロ・アパートの一室を訪ねる。他の住人が全て転居するなか、ただ一人居座る男を追い出すために恫喝しに来たのだ。借金をしている知り合いから依頼されて請け負った小銭稼ぎの仕事である。
 得体のしれないその男は、悪臭漂うその部屋で、幻覚作用のあるキノコを栽培し、わずかな生活の足しにしていた。襖の向こうでは、素っ裸の若い女がラリった状態でベッドで意味不明なこと呟いている。物語は、主人公とこの男のやりとりを中心に構成されている。酒を飲みかわし酩酊する主人公の脳裏をしきりにかすめるのは、昔一緒に暮らしていて、別れた後に入水自殺をした女のことだった――。

 湿り気のある静かな文体は、冒頭から読む者をその陰鬱な物語世界に引きずり込む。加えて、薄暗い悪臭漂うアパートの廊下をその男の部屋へと向かう描写や、襖の向こうで素っ裸でラリっている若い女を発見するあたりまでは、ゾクゾクするほどのスリルがあった。
 選考委員の三浦哲郎はその文体をこう賞賛。

すでに確固とした文体を身につけている一人で、今度の作品も独自の強靭な文体で濃密な作品世界を構築していて危なげがない。

 田久保英夫もこう賛辞を送る。

いつもながらこの作家の都会空間への精妙な感覚と描写は、並みのものではない

薄暗い腐敗臭と微かな甘い香り

 ところが、主人公が酩酊しながら男と会話するあたりから、だらけてくる印象に変る。その会話を通してこの作品の核を描きだそうとしているようなのだが、間延びした会話がやたらと長く続き、しかもその内容が文学かぶれの堕落者の戯れ言のようなので、その必要性に疑問を感じてしまうのだ。
 池澤夏樹は、「この相手との会話がまことに陳腐」と手厳しい。
 さらに、主人公がラリった若い女と関係を結ぶあたりから、表現したいものが何なのかがよく分からなくなってくるのだ。自分を裏切った友人との関係、別れた後に自殺してしまった女への思い、そしてその二人が自分を裏切って関係を持っていたこと等々、さまざまな過去の記憶が蘇り、複雑な情念と思考が主人公の中に渦巻く。最終的には、それらの出来事が自分自身の中にある惰弱さに起因するものだと理解していくようなのだが、描こうとしているものの像が明確な形として伝わりづらい。
 田久保英夫はこう述べる。

物語の組み立てにやや無理があり、そのために後半、観念が露わになってしまった。

 黒井千次はこう言う。

別れた後に死んでしまった女に対する感情と、絶望の上にあぐらをかいていたかのような奇妙な男とのやりとりとの間に、うまく繋り切れぬものが残っている。

 ただ、作品全体から伝わってくる、雨の湿り気や、薄暗い腐敗臭や、その中にかすかに漂う甘い香りのようなものは、否応なく伝わってくる。それは、新宿という街の堕落と人間の堕落から漂ってくる腐敗臭の中に隠れている甘美なものだ。
 タイトルの「花腐し」は、万葉集の中に出てくる言葉のようだ。「くたし」とは、物を腐らせることを意味する名詞。俳句には「卯の花くたし」という初夏の季語があるが、これは卯の花を腐らせるほどにしとしとと降り続く雨を指す。この作品から伝わってくる湿度の高い空気感とうまくマッチしている。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』 第19回『水滴』 第20回『ゲルマニウムの夜』 第21回『ブエノスアイレス午前零時』 第22回『日蝕』 第23回『蔭の棲みか』 第24回『夏の約束』 第25回『きれぎれ』 第26回『花腐し』 第27回『聖水』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。