書評『百歳の哲学者が語る人生のこと』――激動の時代を生き抜いた哲学者のメッセージ

ライター
小林芳雄

人間は小宇宙(ミクロコスモス)である

 著者のエドガール・モランは現代フランスを代表する哲学者・社会学者である。これまで数多くの著作を発表し、『人間の死』や『方法』などの代表作を始めとして、いくつもの作品が日本でも翻訳されている。彼の哲学の特徴は、「イデオロギー、政治、科学」がなす三角関係を「複雑系」と考え、その地点から「人間とは何か」を問い続けた点にある。
 本書は著者が100歳のとき出版された自伝的エッセイである。第二次世界大戦からコロナウイルスのパンデミックに揺れる現代まで――著者は激動の時代を生き抜いてきた。1世紀におよぶ生涯を回想しながら、自身の思想を明快に平易な言葉で語っている。

私は何者なのか。それに対する最初の答えは、私は人間である、というものになるでしょう。これが基盤となるわけですが、状況に応じて重要度が異なるさまざまな形容詞が加わります。私はフランス人であり、セファルディムと呼ばれるイベリア半島系のユダヤ人であり、部分的にはイタリア人でスペイン人であり、より広くは地中海人、文化的にはヨーロッパ人であり、世界市民であり、〈祖国地球〉の子どもということになります。(本書9ページ)

 著者の家系は極めて複雑である。フランスを含めて4か国の国籍を取得できる可能性があるという。一般的に人間はどこかひとつの文化や国に所属しているのが当然とされている。しかし著者自身はどれにも当てはまることはない。ここから著者は自身のアイデンティティを「一にして多」であるとし、さらに、本来すべての人にも当てはまるとも考える。なぜなら、どんな人でも国だけではなく地域や会社または家族など複数の集団に所属するからだ。
 また人間は特定の文化や集団に所属しているだけではなく、その文化全体の担い手である。歴史という観点からとらえるならば、歴史によって育まれると同時に歴史を作る存在でもある。ここから著者は個々の人間はひとつの小宇宙であるという人間観を導き出す。

共産主義との決別が哲学の深化を生む

八年後、スターリニズムと主観的に断絶する危機にあった私は、『人間と死』を書きました。神話、宗教、イデオロギーが人間と社会の現実を作っていること、それらが経済のプロセスや階級闘争と同じくらい重要であることを発見した私は、経済という下部構造から人間の歴史を合理的に説明するマルクス主義思想を放棄しました。死後の生(魂の不死、再生、復活、天国……)に関する信仰が、きわめて多様でありながら普遍的な性格を持つことがわかり、想像的なものが人間の現実を構築する部分であると思ったからです。(本書94ページ)

 ナチスがフランスを占領したとき、著者は対独抵抗運動に参加した。さらに戦後は左翼運動にも加わる。しかしスターリンの独裁体制がロシアの地域的特質ではなく、共産主義自体に由来すると気づく。共産主義の幻想からの目覚めが、著者の哲学を改める大きなきっかけになった。また大量殺戮を生み出した現代文明は「死を忘れた文明」とも呼ばれる。人間の死を見つめる研究から自身の哲学を深化させたことも重要な点だ。
 冷静な理性が生み出す計算や統計または経済合理性が、なぜ全体主義などの非人間性を生み出してしまうのか。著者はその原因を理性中心主義に見出す。理性は人間の多極性を捉えることができない。感情や情熱、幸福や不幸といった人間を構成する重要な要素を捉えることができないからである。‶人間にとってもっとも未知なものは認識そのものである〟ことに気付き、著者は人間を総合的に問う「複雑性の哲学」へ歩みを進めた。

再生したヒューマニズム

 さらに著者は、自身の哲学をモンテーニュからビクトル・ユゴーへと続くフランスの伝統を受け継いだ「再生した人文主義(ヒューマニズム)」であると位置づける。

再生した人文主義(ヒューマニズム)の基盤は人間の複雑性を認めることです。出自、性別、年齢とは無関係に、あらゆる人間に対して、人間としての性質、十全な権利を認めることです。それは連帯と責任という倫理に立脚し、〈祖国地球〉(複数の国が包まれ、尊重されます)という惑星規模でのヒューマニズムを構成します。(本書154~155ページ)

 現在、世界の多極化が急速に進展している。その趨勢が世界をさらなる分断と争いへと向かうのか、それとも多様性と調和へと転じていくのか。まったく予断を許さない状況だ。こうした時代を考えるうえで、本書で語られている内容は極めて有意義である。
「一にして多」というアイデンティティを誰でもが有しているという考え方は、国家の利害や民族の利害が対立していたとしても「わが祖国は地球」という立場から、必ず一致点を見出すことができるという楽観主義を生み出す。
 また「複雑性」という視点は、人間は理性的な側面だけはなく感情的な側面、ときには狂気に満ちた存在であることを含意する。統計と計算も大切だがそれだけで物事が解決できるという思考は理性の倨傲を生み出してしまう。自己批判と謙虚さを持つことの重要性を教えてくれるものだ。
 そして個々の人間は「小宇宙」であるという人間観は、世界が人間を作ると同時に世界が個人のなかに収まり、人間が世界を作る存在であることを明らかにしている。この考え方は西洋で生まれたものでありながら、大乗仏教の説く「具遍」(具足と遍満)の原理にも通じる。
 予測不能で先行きが不透明な時代であるからこそ、人間のさまざまな側面に眼差しを向け総合的に探究する碩学の言葉に、私たちは真摯に耳を傾けなければならない。

『百歳の哲学者が語る人生のこと』
(エドガール・モラン著/澤田直訳/河出書房新社/2022年6月30日刊行)


こばやし・よしお●1975年生まれ、東京都出身。機関紙作成、ポータルサイト等での勤務を経て、現在はライター。趣味はスポーツ観戦。