芥川賞を読む 第33回『ハリガネムシ』吉村萬壱

文筆家
水上修一

暴力性の生まれる暗部の構造を描く

吉村萬壱(よしむら・まんいち)著/第129回芥川賞受賞作(2003年上半期)

不気味な寄生虫「ハリガネムシ」

 第129回の芥川賞受賞作は、『文学界』に掲載された吉村萬壱の「ハリガネムシ」だった。
 受賞作のタイトルにもなっているハリガネムシについて、作中では詳細には解説されてはいないが、調べてみると実に薄気味悪い生物だ。くねくねと動く細長いひものような寄生虫で、乾燥すると針金のように硬くなることが名前の由来らしい。本来は水生生物で、カゲロウなどの水生昆虫に捕食されそれをカマキリなどの陸上生物が捕食すると、その陸上生物に寄生し成長を続ける。最終的には、ある種の神経伝達物質を使ってカマキリを酩酊状態にし、川などに入水させた後にカマキリの尻からにゅるにゅると出て行って水の中へと帰っていく。この作品の不気味さをうまく象徴しているタイトルである。
 平凡な教師だった主人公の〈私〉が堕落・変質していくきっかけとなったのは、ソープ嬢のサチコと出会いだった。社会の底辺を這いつくばるように生きてきたサチコとの交流の中で、自らの中にある肉欲を含む暴力性に徐々に目覚めていく様は、実に見事でありスリリングでもある。
 記憶が定かではないが、ある時期、子どもたちが浮浪者を襲撃する事件が多発し社会問題になったことがある。手も足も出さない弱くみすぼらしい浮浪者を、なぜ子どもたちが一方的に暴力と破壊の対象としたのか、さまざまな議論があったと思うが、この作品はそうした暴力性が生まれる構造を実に鮮やかに描き出している。弱ければ弱いほどみじめであればあるほど、加害者自身の中にも存在する弱者と同質のものを加害者自身が嫌悪し、それを叩き潰すように弱者に暴力を加えることで、陶酔の中に溺れていくのだ。
 選考委員の河野多惠子はこう分析する。

高校教師の〈私〉は、ソープ嬢のサチコの尋常ならぬ世界に入り込んでゆくにつれて、暴力性を引き出されてくる。カマキリの頭のちぎれたあとから出てきた「ハリガネムシ」という標題には、そのような〈入り込む〉〈引き出される〉という関係を示して二重の象徴的な意味がある

執拗な暴力と肉欲の描写も計算づく

 ただ、一方で、余りにも執拗な暴力と肉欲の描写に辟易する人もいるに違いない。特に、終盤あたりの、まるでバケツの中の糞尿をぶちまけるような、手当たり次第に暗くて臭くてどうしようもないものの描写は、生理的に受けつけにくかった。〈私〉の中にある狂気がどのように変貌していくか、その着地点がどうなるか楽しみに読み進めていくのだが、あまりにもひどい暴力と肉欲の描写は、まるで着地点を見失ってなりふり構わず描いたような気さえしてくるのだ。
 ただ、もちろん、それは計算尽くなのだ。作品の冒頭でサラリと描かれる、通勤途中にある建築現場を囲むトタンの穴からのぞいた暗闇の中で繰り広げられているであろう暴力や肉欲に妄想を膨らますシーンが、ラストシーンでは自らがその同じ場所で同質のことを再現するあたり、用意周到なものを感じる。何よりも穴から覗く闇の向こう側の不気味さは、本作のテーマを見事に描いているというしかない。
「ほとんどの選者が当選に同意した」(選考委員・石原慎太郎)と肯定的な評価が多かったが、宮本輝は否定的だった。

また古臭いものをひきずり出してきたなという印象でしかなく、読んでいて汚らしくて、不快感に包まれた。「文学」のテーマとしての「暴力性」とかそれに付随するセックスや獣性などといったものに、私はもう飽き飽きとしている

 この回から選考委員に加わった山田詠美は、おもしろい評価をしていた。

暴力を描写して暴力にならず、セックスを続けてセックスにならず、ただただハリガネムシの生態系の中で、人々は泣いたり笑ったり。読み手もだ

 それにしても、人物描写がうまい。主人公やサチコだけではなく端役として登場する人物さえも、わずかな描写にも関わらず輪郭がはっきりと浮かび上がっている。主人公が教師という設定も、社会の模範となるべき立場の人間の中にも潜む暗部を描くという意味で的確だった。
 最後に、石原慎太郎の選評を紹介する。

最後の部分にある、「何より、私は自分の欲望に飽きていた。体の中のハリガネムシが暴れるたびに死にたくなる。こんな生は要らなかった」という一節は極めて暗示的である

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』 第19回『水滴』 第20回『ゲルマニウムの夜』 第21回『ブエノスアイレス午前零時』 第22回『日蝕』 第23回『蔭の棲みか』 第24回『夏の約束』 第25回『きれぎれ』 第26回『花腐し』 第27回『聖水』 第28回『熊の敷石』 第29回『中陰の花』 第30回『猛スピードで母は』 第31回『パーク・ライフ』 第32回『しょっぱいドライブ』 第33回『ハリガネムシ』 第34回『蛇にピアス』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。