芥川賞を読む 第66回 『おらおらでひとりいぐも』若竹千佐子

文筆家
水上修一

孤独と老いに向き合う東北弁の老婦人

若竹千佐子(わかたけ・ちさこ)著/第158回芥川賞受賞作(2017年下半期)

老いを思弁する

 芥川賞作家の受賞年齢は、だいたい30~40代が多いのだが、ダブル受賞となった第158回は、前回取り上げた「百年泥」の石井遊佳が54歳、今回、取り上げる「おらおらでひとりいぐも」の若竹千佐子が63歳と、いずれもある程度の年配者だったのがひとつの特徴だった。
 若竹は、55歳の時に夫に先立たれ、長男のすすめで小説講座に通い始めたのが小説に取り組むきっかけだった。2017年に同作で第54回文藝賞を受賞してデビューし、翌年2018年に芥川賞を受賞。2020年には田中裕子の主演で映画化もされている。まさに、人生どこでどうなるか分からない。

 主人公は、東北出身の75歳になる日高桃子。若い頃、田舎から逃げるように上京し、勤務先の常連客と恋愛結婚。子どもたちを育て上げ、これから余生を楽しもうという年齢のとき、突然最愛の夫を病気で亡くす。すでに自立して家を出て行った子どもたちとは疎遠で、家にいるのは自分一人。仕事もなく、これといった楽しみもなく、日常が流れていく。賑やかさと楽しさと懸命さに溢れていた若き日々に対して、今あるのはたった一人で古い家屋に暮らす寂しさだけだ。老いと向かい合う桃子の日常を、過去の記憶と現在を行き来しながら描いている。そして、老いとどう向き合うのか、あるいは残された時間をいかに生きるべきか「思弁」するのである。

 文体は、一人称と三人称が混交されている。大きな特徴は、その一人称の部分。作品の中核をなしている「思弁」の箇所がコテコテの東北弁で語られるのだ。脳内にさまざまな人格を持つ人物が登場し、彼ら彼女らが「ああでもない、こうでもない」と勝手に話し始める。それは、1日の長い時間をひとりで過ごさなければならない桃子の生み出した生活術なのかもしれない。
 奥泉光の選評。

本作はひとりの老女の内面の出来事を追うことに多くの頁が割かれて、彼女の記憶や思考をめぐる思想のドラマが一篇の中核をなすのであるが、こうした「思弁」でもって小説を構成して強度を保つのは一般に難しい。ところがここではそれが見事に達成されている。これは作者の言葉に対する感覚の鋭さと、時間をかけた錬成のゆえであり、東北弁を導入することで新しい日本語の地平を切開こうとする大胆な狙いが成功しているからだ。

 論理的思考で考える「思弁」が物語の中で幅をきかせるような作りにすると、無機質な温もりのないものとなり物語としての味わいが薄れがちだが、優れた言語感覚のもと、東北弁という温かみのある言葉を使ったことによって、いきいきとした物語としての味わいを保ったのだ。

方言の持つ力

 小説は、方言をうまく使うことでその独特の世界観を構成することができる。なぜならば、方言にはその土地の文化や歴史や人々の気質が凝縮しているからだ。本作品においても東北弁が重要なカギを握っている。若い頃、東北から逃げるように上京してきた桃子が、この年になってやっと自らを育んできた故郷の山や東北弁という言語が自分の一番根っこにあることを発見するのである。
 島田雅彦の選評。

一種の自分探しの物語ではあるのだが、自己実現や挫折の物語ではなく、自分を構成する要素としてのコトバ、家族、自然、時間などを巡る考察になっており、自分の記憶のみならず、無意識に刻まれた土地や先祖の記憶をも掘り起こそうとしている。

 残された時間の中で寂しさに身悶えしながら、自分の老いと向き合う桃子さんが最後に見つけるのは、未来への希望である。この明るさもまた東北弁という言葉があってのことのような気がした。
 吉田修一の選評。

作品の底に流れているのは、この生きていることのぬくもりではないだろうか。そしてこのぬくもりは、作者がその人生を賭けて勝ち取ったものである。

 宮本輝の選評。

このような深さは、やはりある程度の年齢を重ねてこなければ書けないもののようだ。(中略)若竹さんはまだ六十三歳。花開いた天分をさらに磨いて、もっともっといい小説を書きつづけてもらいたいと願っている。

 年配の作家志望者にも勇気を与える受賞ではないだろうか。

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みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。