芥川賞を読む 第52回 『冥土めぐり』鹿島田真希

文筆家
水上修一

過去の不運や絶望の中から見出した再生の光

鹿島田真希(かしまだ・まき)著/第147回芥川賞受賞作(2012年上半期)

過去という遺物を眺める

 不運や絶望や諦めから、人は再生の道を発見できるのか。ある種の宗教的命題を抱えた作品ともいえる鹿島田真希の「冥土めぐり」。
 主人公の奈津子の母と兄は、傲慢で、虚栄心が強く、拝金主義で、浪費家だった。その背景にあるのは、祖父母時代の裕福さ。超豪華なホテルで食事をしダンスを楽しみ、周囲からも特別扱いされるような家庭環境だったため、祖父母が亡くなり金の工面にも苦労するような生活に落ちぶれた今でも、昔の栄華が忘れられず虚栄に満ちた生活を追い求めているのである。
 そうした二人から小馬鹿にされ金銭的に搾取されてきたのが奈津子である。社会的常識から見れば奈津子の方が圧倒的に健全なのだが、そうした家庭環境だったため奈津子の自己肯定感は極めて低い。家族からの無理な要求にも逆らわない。それはまるで自分を諦めたような存在である。そんな奈津子は、職場の同僚と結婚したのだが、夫はその後、脳に関する病を発症し車椅子生活となる。稼ぎのない夫の日常生活を支える奈津子の日々は、一見あまりにも不遇である。
 ある時、二人は旅行に出かけることにした。行く先は、裕福だった頃に両親や祖父母と一緒に出かけた超豪華ホテルのある観光地。そこで、家族の過去を客観的に見つめるのだが、夫との出会いこそが自分にとっての救いだったということを発見するのである。
 卑近な例えで言えば「塞翁が馬」の故事を思い出すのだが、宗教的視点から考えれば、たとえ客観的に見て不幸な出来事や状況だったとしてもそれがあればこそ見つけることのできる幸福というものは間違いなく存在するということを、この物語は示唆している。
 髙樹のぶ子の選評。

受賞作『冥土めぐり』は宗教的な暗示が色濃い作品だ。同時に、経済的な豊かさを剥ぎ取られてもなお虚飾と虚栄の夢を捨てられない浅ましい人たちを描くことで、経済力以外のアイデンティティーを持ち得ていない日本の縮図としても読める

「冥土めぐり」というタイトルがいい。逃れられないと思っていた自分の過去は、もはや今ではなく、死んでいる過去なのだ。旅の中で、それらを客観的にひとつひとつ眺めながら、死んでいるものとして切り捨て、そこから未来に生きるための光を見つけ出すという意思が、このタイトルには込められているのだろう。

障害を抱えた夫の奇蹟

 この作品で重要な役割を担っているのが、身体障害を抱えた夫である。夫は、奈津子の母や兄とは対極にある。物事に執着せず、自分が障害を抱えていることに対する引け目も感じさせない。子どものような無邪気さは、時に奈津子の孤独を増幅させるのだが、最終的にはこの個性と存在が、奈津子に奇蹟のような希望の光を見つけさせる。
 同じく髙樹のぶ子の選評。

夫は(中略)ささやかな喜びを無限の幸福に繋げていける無垢な男として描かれている。(中略)自分が置かれている状況を認識出来ない夫は、しかし聖愚者として救済者となる。作者のもっとも伝えたい『奇蹟』を、不器用なまでに真正面から書いている

 島田雅彦の選評。

おそらく、この作品は鹿島田本人にとって、過去の自分との決別を宣言するものになるだろう。身体障害を抱えた夫の無垢な善人ぶりに救われたヒロインは新たな旅に出る準備を整えたのである

 2013年4月9日の信濃毎日新聞の記事によると、夫の障害は架空の話ではない。だとすれば、この物語は、作者自身のある種の精神的実体験がベースになって作られた私小説といえる。
 鹿島田真希は、平成10年に「二匹」という作品で文藝賞を受賞し、その後、三島由紀夫賞、野間文芸新人賞なども受賞し、芥川賞は4回目での候補で受賞となっている。受賞会見では「苦節十四年」という言葉を口にしたそうだが、選考委員の宮本輝は、その頃からこの作者の作品を見てきたそうで、次のように祝福している。

その頃の作品は、作者の年齢の若さもあったのだろうが、あちこちに綻びというよりも小説そのものの分裂と言った方がいい箇所があって、内に可燃物を鬱屈させたまま、その行き場に困惑しているのをはっきりと感じさせた。(中略)しかし、『冥土めぐり』で、鹿島田さんは内なる可燃物をわずかながらも燃焼させた。十四年間書き続けてきたことによって得ることができたひとつの境地の幕開けだとしたら、その持続の力に敬意を表したい

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』 第19回『水滴』 第20回『ゲルマニウムの夜』 第21回『ブエノスアイレス午前零時』 第22回『日蝕』 第23回『蔭の棲みか』 第24回『夏の約束』 第25回『きれぎれ』 第26回『花腐し』 第27回『聖水』 第28回『熊の敷石』 第29回『中陰の花』 第30回『猛スピードで母は』 第31回『パーク・ライフ』 第32回『しょっぱいドライブ』 第33回『ハリガネムシ』 第34回『蛇にピアス』 第35回『蹴りたい背中』 第36回『介護入門』 第37回『グランドフィナーレ』 第38回 『土の中の子供』 第39回『沖で待つ』 第40回『八月の路上に捨てる』 第41回『ひとり日和』 第42回『アサッテの人』 第43回『乳と卵』 第44回『時が滲む朝』 第45回『ポトスライムの舟』 第46回『終の住処』 第47回『乙女の密告』 第48回『苦役列車』 第49回『きことわ』 第50回『道化師の蝶』 第51回『共喰い』 第52回『冥土めぐり』 第53回『abさんご』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。